2016年8月15日月曜日

『ゼロリスクの罠』

掲題の本のタイトルは『ゼロリスクの罠---「怖い」が判断を狂わせる』(佐藤健太郎、光文社新書)だが、此の本の書評が或るホームページで紹介されている。
本来は此の本自体を読むのがベストだろうが、上記の書評だけでも私には充分である。

以下の文章だけでも、私自身大いに反省すべき点が指摘されていて身に染みる。いくつか引用しよう。

・「危険」は実在するが,「安全」は実在するものではない。

・つまり,「安全」とは幻影にすぎないのだ。

・私達はどう考え,どう行動すべきかについて考察するのが本書であるが,その基本思想は「現実を知り,お伽話を排除し,無知による恐怖を取り除く」ということになると思う。

・このようにして、私たちは常に7000ベクレルの内部被爆を受けているのである。このような事実を無視して、放射能を怖がっても意味がないのである。怖がるのは正しい知識を得てからでも遅くないはずだ。

***
この書評を読んだだけでも、いかに私(たち)が、己の無知により翻弄されているかが分かる。

事実、当地の新聞には当地のどこそこの放射能線量が何ベクレルかというマップ掲載されていたし、また食品の放射性物質の検査結果表が掲載されていた。

果たして、私(たち)は此の放射能汚染についても、
『お伽噺』に翻弄され無用な恐怖を煽られてはいないか?

『現実( 真の知識 )を知る』ということが如何に大切か、何よりも私(たち)自身にとって。


それを教えてくれる書評である

『空車』(森鴎外)について

私は此の『空車』の後半部分を読むたびに、鴎外の『妄想』に書かれた或る箇所を連想する。その箇所を引用してみよう。(『空車』の前半部分は私は興味がない。)
---------------------------
(前略)自分は辻に立っていて、たびたび帽をぬいだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大ぜいあったのである。
帽はぬいだが、辻を離れてどの人かのあとについて行こうとは思わなかった。多くの師にはあったが、一人の主にはあわなかったのである。
---------------------------
此の空車は鴎外の主のメタファーかも知れない。
いずれにしても『空車』の後半の文章は鴎外以外には書けない文章だと私は思っている。

現代日本語で書かれた最高の文章の一つだとも私は思っている。

集合論の初歩的な質問

集合論の初歩的な質問をします。だれかコメントあれば下さい。

竹内外史著『集合とはなにか』(講談社・ブルーバックス)に書かれていることについてです。第3章での、順序数に伴って、できる集合の説明の箇所です。

この本で、順序数3ができるとき、その時点で、『新しく』、出来る集合は、以下と書かれています。(新装版以前の本の101頁の表)

{{1}}, {2}, {0,2}, {1,2}

上記のように書かれています。

しかし、、順序数3ができるとき、その時点で、『新しく』、出来る集合は、上記の集合の他に、下記の集合も、その時点で存在するのではないか私は思います。即ち、

{{1},1}, {2,{1}}, {2,{1},1}, {0,{1}}, {0,{1},1}, {0,2,{1}}, {0,2,{1},1}

たぶん、本のタイプミスのではないか、と私は思っているのですが、私の勘違いかも知れません。この件が、以前より気になっているものですから、訊いておきたいと思ってます。


誰か、コメントあれば、ください。この本は、新装版があり、この新装版では、この箇所が、どのように書かれているかは確認はしていません。

2016年8月10日水曜日

『郵便局』(萩原朔太郎)

私の好きな詩人の一人は萩原朔太郎だ。
彼の作品で、とりわけ好きなものの一つに、『郵便局』という散文詩がある。
以下のように始まる。
--------------------
郵便局といふものは、港や停車場と同じく、人生の遠い旅情を思はすところの、悲しいのすたるじあの存在である。(後略)
--------------------
私は若い頃、「悲哀:pity」という感情に強く惹かれた。
その件に関しては以前の記事『「獄中記」 (オスカー・ワイルド)』に書いた。
https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=1298455732640267465#editor/target=post;postID=2685477677214103278;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=1;src=postname
---------------------
私が惹かれた「悲哀:pity」という、いわば文脈に、掲題の詩があった。
***
話が飛ぶが、漱石の『三四郎』に、『かわいそうだたあ、ほれたってことよ』というセリフが出てきたと記憶しているが・・・私の記憶違いかも知れない・・・このセリフのネタ元は『Pity's akin to love.』てなコトを私が知ったのは、この頃である。
***
pity なる感情こそ、今生で最も崇高な感情だと若い頃の私は信じて止まなかった。
G.マーラーの音楽も然り。
萩原朔太郎の『郵便局』も然り。
O.ワイルドの『獄中記』も然り。
そして此の心情に通底している釋超空の歌・詩も然り。etc etc
***
萩原朔太郎に『郷愁の詩人・与謝蕪村』という作品を「愛して止まなかった」・・・あまり好きな言葉ではないが他に変わる日本語がないから使わざるを得ない・・・のも其の頃だ。特に、この作品の序文に私は惚れ込んだものだった。
***

現在でも基本的には、この信条(心情)は変わっていない。

2016年8月8日月曜日

『ゲーデル・不完全性定理』(吉永良正著)

講談社・ブルーバックス
--------------------
私が、ゲーデルの不完全性定理に興味をもって、初めて買った本が掲題の本だ。

実は私は此の本でカントールの超限基数なるものや連続体仮説等の 「実無限」 の存在を知った。

ゲーデルの不完全性定理の話よりも、カントールの話のほうが私は面白かった。

カントールの超限基数なるものや連続体仮説等の 「実無限」 について、全く無知で、もし、それを知りたかったら、私は此の本を勧める。

***
話は飛ぶが、「ラッセルのパラドックス」 という有名なパラドックスがある。

このパラドックスによって、現代数学は未曾有の危機に陥る。

***
以下は余談だが、私は面白い話だと思っている。

先ず、ラッセルのハラドックスとは何か?だが、これには数学の素人向けの説明が、いろいろあって、その中に 『村の理髪師のラッセルのパラドックス』 がある。知っている人も多いだろう。
そのパラドックスとは以下のもの。
-----------------------
ある村に、その村で、ただ一人の理髪師がいて、自分で自分のヒゲを剃らない村人全員のヒゲだけを剃るとする。さて、その理髪師は自分のヒゲを剃るだろうか、剃らないだろうか?

もし剃るとすれば、彼自身は剃らなければならない対象から除外されるので、剃る必要はない。もし、剃らないなら、その対象に含まれるで、剃らなければならない。

さあ、どうする。どうしようか ?! 
------------------------

以上が 『村の理髪師のラッセルのパラドックス』 だが、このパラドックスを、或る女学校の生徒たちに紹介した教師がいたそうな。

そしたら、一人の女性徒が立ち上がって、こう言ったそうだ。

『先生、その理髪師が女性なら、なんの問題ないじゃあ、ありませんか』

***
尤も、当今はヒゲを剃る女性も居るかもしれないが・・・

2016年8月5日金曜日

『獄中記』(オスカー・ワイルド)

岩波文庫版、阿倍知二訳

***
ものもちの悪い私が、大学・学部時代から、現在まで身近においてある本の一つが掲題の本である。昭和42,3年頃、大学の生協で買ったと記憶している。

***
何故、此の本を今迄捨てずにきたのか、自分でも、はっきり理由が分からない。

私は自分の専門書を含め、ことあるごとに、本を捨ててきた。

本のみならず、子供の頃の写真や卒論の類等、ほとんど全て捨てた。

**\
私は妙な性癖があって、身につけるモノは嫌いで、指輪など、はめたことは一度もなく、時計も必要の時以外は手首に着けたこともない。

ネクタイも二本しかなく、その締め方も、父から教えたもらった、一番、簡単な方法のみしか知らない。

今や、其の締め方も忘れているかも知れない。もしかしたら、手が覚えているかも。

飲料水も、昔は、ともかく、現在の好物は水、乃至、さ湯である。

***
閑話休題。

私が此の本を買った頃、私は、『哀れ』というモノに異常な関心があった。

それはG.マーラーの音楽・・・特に、交響曲第四番・・・の影響、感化があったからだと思われる。

そういう私の下地 (したじ) が此の本を買わせたと、今から思えば推定できる。
この本の主題は、独断だが、『哀しみ』だからだ。

この本に以下の文章があり、私は当時、この文章に心酔したものだった。
-------------------------------------------------------------------
悲哀とは、愛のほかの如何なる手が触れても血を噴出す傷痕である。否、愛の手がふれる時すらも、痛苦でこそなけれ血ににじむものである。
悲哀のあるところに聖地がある。いつかは人々がこの言葉の意味を解するときもあろう。それを解するまでは、生命についても何物も知らぬのだ。
----------------------------------------------------------------------

また、悲運な運命に遭遇したプルシャ王妃の以下の言葉も、この本に引用されていて、この言葉も私の、お気に入りとなって、その引用箇所に赤線で囲んである。
-----------------------------------------------------------------------
悲しみの裡に麺麭(パン)を食みしことなきもの
嘆きつつあかつきを待ち詫びて
真夜中の時を過ぎせしことなきもの
神よ、かかるものは卿を知るあたわず
-----------------------------------------------------------------------
***
このような言葉や文章に私は惹かれた。また此の本に底流している、オスカー・ワイルド自身の「悲しみや哀しみ」に私は共感した、のだろう。

岩波文庫で100頁余りの手ごろさと、阿倍知二も訳も私は気にいったのだった。

***
この本で思い出がある。

私が通っていた大学では、大学三年のときだったと記憶しているが、工場実習というものがあった。実習先は或る電気製造会社だった。その在る場所は・・・現在どうなっているか知らないが・・・東上線の志木という所だった。

私は池袋駅から志木まで、その会社で電車で通った。確か、その工場実習は一か月だったと思う。

その電車での行き帰りに私は此の本を読んだ、という記憶がある。

だから、東上線とか志木とか耳にすると私は此の本を連想する。

***
この本の定価は星印一つである。

今や、この岩波文庫は黄ばんでいる。

思えば、半世紀ほどの付き合いになる。

『東京日記』(内田百閒)

三島由紀夫は内田百閒の小説を評して『俳画風の鬼気』と言っている。
事実、『東京日記』も、そのように評してもよいだろう。
***
この小説は23の短篇によつて構成されている。
その、いずれの話も、なんでもない「日常性」のなかで、「私」が体験する、「非日常性」である。 幽霊や鬼婆が出てくるわけでもない。
***
私は以前の記事(私のブログの「雑感」で『日常性の中の不条理』について書いた。
https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=6510294281337842087#editor/target=post;postID=1134433467278334483;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=0;src=postname
この記事で『NHKラジオの日曜名作座という番組で、百鬼園夜話と題された語りが放送された』と書いたが、まさに、『東京日記』のいずれの話も、「私」が体験する、『日常性の中の不条理』である。
その『不条理性』は、「私」だけが体験するもので、悪夢、というより、一種の「拠り所の無さ」の体験である。
***
私自身が、よく見る夢に、「自分が何処に居るのか分からない」とか「自分の行く場所が分からない」という、或る「拠り所のなさ」で不安な体験をすることがある。これは夢なんだと夢のなかで思っているときもある。
このような体験は精神分析上で、何か説明できるのかどうか私は知らないが、ともかく私は、私自身の体験として、自身の「拠り所のなさ」を実感する場合が多々ある。
***
この『東京日記』の、どの話も、「私」という者の「拠り所のなさ」と言えるだろう。
( 夏目漱石の『夢十夜』の話と共通点があるかも知れない。しかし『夢十夜』よりも、内田百閒の世界は、より「曖昧」で、三島由紀夫が評したように「俳画風」である。)
***
そういう意味で、特に私が面白いと思うのは (その8) の話。
この話に登場する「女」は、落語の「むじな」ようでもあり、また、『思い出そうとしても、どうしても思い出せない「女」でもある。小泉八雲の『怪談』をも連想させる。
***

ちなみに、三島由紀夫が、『私にはいまだに怖いのは (その16) のトンカツ屋の話』だそうである。

2016年8月3日水曜日

内田百閒 『サラサーテの盤』(朗読:内田朝雄)

私は内田百閒の、例えば掲題の『サラサーテの盤』、『東京日記』、『冥途』等の小説が好きだ。幸いに『サラサーテの盤』はYou Tube で聞くことが出来るのでリンクしておく。
内田百閒 『サラサーテの盤』は1980年に鈴木清順監督によって映画化された。
私は此の映画を、昔、観ているはずであるが、其の内容は、今や全く忘れてしまった。
私の記憶違いかも知れないが、この映画で橋が登場したと思う。
この橋が我が故郷・旧東海道の島田宿と金谷宿の間の大井川に、かかっている蓬萊橋(ほうらいばし)に酷似していた、という記憶がある。
その橋の写真を掲載しておく。
ネットで検索すると此の橋は以下のように書かれている。
大井川にかかる蓬萊橋(ほうらいばし)は、全長897.4メートル、通行幅2.4メートルの木造歩道橋です。「厄なし(8974)の橋」や「長生き(長い木)の橋」とも呼ばれています。
あの世と、この世との間にかかる橋という意味もあるのかどうか、そんな気もする。
『東京日記』については別の機会に書く。
『冥途』について、芥川龍之介が『点水』という随筆で以下のように評している。
(前略) (内田百閒が)見た儘に書いた夢の話である。出来は六篇の小品中、「冥途」が最も見事である。たつた三頁ばかりの小品だが、あの中には西洋じみない、気もちの好いい Pathos が流れてゐる。(後略)
『気もちの好いい Pathos』と言えば、私は映画『異人たちとの夏』(1988)を連想する。

この映画も、一種の怪異譚であった。

2016年7月28日木曜日

『コンピューター・カオス・フラクタル-見えない世界のグラフィクス-』

クリフォード・A・ピックオーバー著、白揚社、日本語訳:高橋時一郎 他

***
今から約30年前、私は在職中にインタープリターBASIC言語を覚えさせられた。

当時、たまたま見た科学雑誌に掲載されていた 『PCで作る"放散虫”』 の記事に私は大変、興味を覚えた。

その記事は数学者:クリフォード・A・ピックオーバーの論文の簡単な紹介であった。

その論文の概要は、その後、 掲題の本の中で紹介された。

***
私は、この本を購入する以前より、上記した科学雑誌の記事に基づいて、 "放散虫" 作り遊びを開始した。

その記事には、インタープリターBASICによる、 "放散虫" 作りプログラムが簡単に紹介されていた。

私でも其の遊びが可能だった。

当時は東芝・パソピアで此の絵作り遊びを開始したものだった。

***

その後、私は上記した本を買い、自分なりに其の絵作り遊びを続けた。

科学雑誌に掲載された "放散虫" は、複素関数が Z^3+0.5 という単純なモノだった。

(先の日記に掲載した『絵』が、その一例である)

私は、自分なりに、複素関数を更に拡張させていった。

また画像の作成条件も拡張させていった。

***
爾来、約30年、私は此の絵作り遊びを続けた。

それは、まさに、クリフォード・A・ピックオーバーが掲題の本で書いてあるとおりの楽しさだった。

その楽しさとは、クリフォード・A・ピックオーバーが見事に表現していて、其れを以下に引用してみよう。

--------------------
私はときどき自分を釣り師になぞらえてみる。

コンピューター・プログラムとアイデアは釣り針であり、リールである。

コンピューターで描きあげた絵はトロフィーであり、うまいご馳走である。

釣り師には、何が釣れるかがいつもわかっているわけではない。

しかし、どこがよく釣れるか、どの流れに魚がたまっているか、などについての知識はもっているだろう。

しばしばびっくりするほどの大物が釣れるが、これこそまさに釣りの醍醐味である。しかし保証はない。

そのかわり予期しない楽しみもある。

読者もぜひ未知の釣り場で実際に糸を垂れてほしい。

できれば釣りあげた獲物を観賞し更に其れを解剖し内部の構造を調べてほしい。
--------------------
***
私の絵作り遊びは、現在、私のネタ切れで中止している。

しかし誰か、掲題の本を読み、ピックオーバーの書いているような遊びの精神で、このような絵作りに挑戦することを私は期待したい。

私の知らない世界が未だ未だあるに違いないからである。

***
下図は上記した科学雑誌に掲載された "放散虫" の図である。

***
余談だが、私のPFにも書いたが、もし私が人間に生まれかわったら、ほんものの、フライ・フィッシングをマスターしたいと思っている。

2016年7月26日火曜日

『ポンドの宇宙・脳と心の迷路』 (その4)

いままで書いてきたのは、もう半世紀以上も前の、この本の感想文だ。

この本は、著者たちがインタビューした、或る脳神経学者の言葉を紹介して終わっている。著者たちはその神経学者に、こう質問した。

***
『アインシュタインその他の物理学者は宇宙の法則について思索しているとき、ほとんど宗教的といえるような畏敬を感じたと述べています。脳についてもそのように感じましたか?』

***
この質問についての、その神経学者の言葉も実に印象的なので、それを、ここに付け足しておこう。

----------------------------
『 脳について畏敬は感じませんが、神には畏敬の念を覚えます。

わたしが脳に認めるのは宇宙の美とその秩序ですーーー神の現存することの揺るがぬ証しです。

私は脳が、宇宙のあらゆる物理法則に従うことをいま学んでいます。

脳は特別なものじゃあありません。それでいて宇宙でもっとも特別なものです。』
------------------------
***
何度も書くが、この本が出版されたのは半世紀以上も前だ。

今や脳科学は、当時よりも格段に進歩しているだろう。

だから、この本に書かれていることには、だいぶ訂正すべきこと、あるいは付け足すことが多いと、私は思う。

しかし、まんざら間違いだけではないだろう。

ともかく圧倒的に面白い本であることは確かである。

著者たちが、もう一度奮起して、この本の改訂版を出版してもらいたい。

特に、この本の最終章の 『カオス、ストレンジ・アトラクタ、そして意識の流れ』 という主題の更なる進展を、私は是非読んでみたい。

***
この本の序文 『汝自身を知れ』 でアイザック・アシモフはこう書いている。

-------------------------
『私たちは脳を用いて脳を理解しようとしている。あるものが、それ自身を理解することは可能か ? 脳の複雑さは脳の複雑さを理解できるのか ? 』
-------------------------
***
今や、脳科学の知識は格段に進歩し続けているのだろう。

しかし、もしかしたら更に混迷へと深みに入っているのかも知れない。

私は前記したアシモフの言葉から、なんの脈絡もなく、ゲーデルの不完全性定理を連想する。

人間の脳は自身の脳を完全に理解できるのか ? 

例えば、蛇が自身の尾を飲み込んでいったら最後はどうなるのか ?

『ポンドの宇宙・脳と心の迷路』 (その3)

何故動物は夢をみるのか、ということの説明で、この本で紹介されていない他の説明が L.ワトソンの 『生命潮流』 という本に書かれている。

--------------------------
それは、そもそも、睡眠とは動物をジッと静止させておく “固定剤” の作用をさせるものでもあるというのだ。

動物にとって外界をウロウロ動き回るのは、必ずしも有利なことではなく、隠れ場所でジッと動かずに居ることが有利な場合もあるわけで、そういう一個所での静止状態を保つために睡眠が発達していったというのだ。


そしてREM睡眠即ち夢をみるということは、睡眠中に危険な場合に遭遇したとき直ぐ行動に移れる用意だというのだ。

夢とは、いざというときのために体にエンジンをかけておくというわけだ。

睡眠の期間中、定期的に現われる夢とは 『動物を動かない状態にしたまま、なおかつ目を覚ます準備態勢をとらせる警報装置』 だというのである。
---------------------------
***
このように、たかが夢といっても、いろいろな役目があるようで私は驚いてしまう。

夢のいろいろな学説も、たぶん、それぞれ正しい面があるのだろう。夢は一筋縄ではいかない複雑怪奇な現象ようだ。

この本に書かれている更に興味深い話はカルフォルニア大学のゴードン・グロバスという学者の “実存的精神医学” に関連する話。

これは難解で、この本で読んでもよく解らないが何か興味深い。

以下その不可思議な魅惑的な“学説”を紹介しよう。

-----------------------
夢とは我々の昼間の出来事の反映などではなくて、夢は一つの独立した実体というのだ。

荘子は蝶になった夢をみたそうだが、荘子のジレンマは、実は我々の実存的なジレンマなのだ。

つまり 『わたしは蝶になった夢を見ている人間なのか、それとも人間になった夢をみている蝶なのだろうか?』 というわけだ。

この本では、以下のように書かれている。

『 私たちが知覚する世界は全てアプリオリに脳の中に存在する。

いま、私たちが見ている世界はこの無限のアプリオリな貯えの中から選ばれたものです。・・・夢は限りなく創造的です。

何故かというと夢を見る機構は脳の無限の貯えから私たちがそれまで見たことのないものを選びとるからです。』

『私たちは全員みな同じ世界を知覚しているというが、しかしブラックホールと呼ばれる奇妙な天体から、それと同じぐらいに奇怪なクオークにいたるこの宇宙が壮大な集団的な”夢”である可能性もある。』

『私たちが現に知覚しているようにものごとを知覚するのは、ホモ・サピエンシスの脳がそのようにできているだけのことかも知れない。神の脳あるいは別の進化をとげた地球外脳は異なる宇宙を”構想”するだろうか?』
----------------------
***
私はこういう煙りにまかれるような話しは大好きであるが、しかし本当にこの世界は”客観的”実在世界なんてもんじゃあなくて、私の脳が”勝手に”創り上げた幻想なのだろうか。

そうかも知れない。一切合財、夢のまた夢。

この世は私の脳の幻覚!

『ポンドの宇宙・脳と心の迷路』 (その2)

胎児も子宮の中でREM (急速眼球運動) つまり夢をみているそうだ。

新生児も1日の約半分は夢をみているそうだ。

犬や猫も夢をみているらしいのは私は経験的にわかる。

連中も寝言云うときがあるから。その寝言もワンとかニャーの変形音を発するのだから笑ってしまう。

ところで何故、哺乳類は夢をみるのだろう? 

この本によれば、その説明にはいくつかの学説があるそうだ。
----------------------
学説その1:
フロイトの考えで、夢とは心の安全弁であり超自我の眼を盗んで、危険でタブーになっている感情のこもった、あるいは矛盾するメッセージをこっそり伝えるものである。

昼間の出来事の記憶痕跡は、頭蓋骨内の太古の森のなかで、我々の深い暗い過去から引き継いだ “退行性素材” と入り混じる。

などなど・・・
---------------------
学説その2:
心理的平衡を保つのに夢が必要である。

例えば、昼間、侮辱を受けて自尊心を傷つけられたときには、夢の中で自我の価値を高めて補償しようとする。
---------------------
学説その3:
夢は記憶の固定化に役立つ。

哺乳類の脳は既成の神経連結を全く持たずに生まれ、経験に頼って意味あるパターンを織り上げる。

夢の仕事は経験を再現し重要なシナプス連結を強化することにある。 

爬虫類や魚が何故夢をみないかは、その理由による。

また試験勉強したあとは寝て夢をみるのが良い!
----------------------
学説その4:
学説その3と全く逆。

いわく、我々は忘れるために夢をみるのだ!

(この学説が私はおもしろい。) 

人間の情報貯蔵には上限があるのではないか。

ときには別の、もっと有用なパタ゜ーンを納める場所を作るために我々は記憶を “消去” したほうが良い場合もあるのでないかというのだ。

ある学者たちが、この学説を確認するためにコンピューター・シュミレーションを行なったそうだ。

そのモデルやアルゴリズムはよく分からないが、そのシミュレーション結果によると、神経網がむりやり多数重なりあったパターンを押し付けられて過負荷になった“脳”はなんと “発狂” したそうだ! 

この本の記述によると、以下のとおり。

『彼らの新皮質網モデルは、気ままな活動様式を呈し奇怪な連想・幻想的なシリコンのたわごとを印刷して吐きだした。

ときには、 “とり憑かれた” ようになり、同じ記憶を幾通りも変えてもち、あるいはどんな刺激に対してもほんのわずかの記憶だけを印刷するという反応を示した。』
-----------------------
***
人間のシナプスの大部分は興奮性で混線した神経回路網は発振しやすいということでもあるらしい。

発振というのは電子回路などに現われる現象だ。

それは、回路網に正のフィードバックが形成されてしまい、入力信号がないのに自身で勝手気ままな出力を出す誤動作状態だ。

増幅器などの電子回路を設計した人なら誰でもこの発振現象に苦しめられているはず。

***
てんかんなども脳の神経回路網の発振現象のようだ。

人間の脳も、電気会社の実験室のなかの電子回路も、同じ自然現象に苦しめられるというのは、あたりまえの自然現象であるのかも知れない。

しかし、ちょっと妙な気分に、私はなる。

***
この学説によれば、夢は心配ごとというもつれたモノを繕っているのではなくて、もつれを “ほぐしている” 神経網の一瞬の影だということだそうだ。

だから夢とは生体が破棄しようとしている記憶パターンだから、夢を更に記憶するのは勧められることではないということにもなるそうだ。

そういえば、あまり夢というのは憶えていないものだ

『ポンドの宇宙・脳と心の迷路』 (その1)

(ジュディス・フーバー、ディック・デイック・テレシー著、白揚社)

この本の初版(英語版)は1986年で、日本語訳が出版されたのは1989年。

この本を私が初めて読んだ(日本語版)のは、'89年の師走だったが、もう半世紀以上過ぎた。

この本は実に面白い本で翻訳も、とても読みやすい。 (林一という人の訳だが私はこの人のファンだ) 

この本はその後何回か再読している。
我が僅かな読書歴でこの本はベスト3には入る。

***
素人ながら私は脳に興味があって、その後いくつか脳に関連する本を読んだが、この本に比べると正直退屈だった。

私はこの本の改訂版を長く待っているのだが、どうも適わないようだ。

***
この本は“脳と心の迷路”という副題がついているように脳科学にまつわる、いろいろな話が平明に語られている。

著者たちは脳科学の専門家ではなく、一般科学書のライターのせいか語り口が新聞の科学記事のように具体的で分かりやすい。

著者たちの視点も、我々脳科学の素人の視点であり、脳科学の単なる解説に終わっていない。

この本 『3ポンドの宇宙』 は科学ものだから言わば賞味期限を今や過ぎているだろう。

著者たちの脳科学への取材が始まってから、もうかれこれ半世紀以上になるから、その間、脳科学も相当進歩しているだろう。

しかし、この本は脳科学のただの解説に終わっていないので、現在の再読にも耐えられると私は思う。

***
この本が余りに面白かったので、この本の感想文を、昔、或るバソコン通信の掲示板にupしたことがある。

何回かに分けて感想をupしたのだが、そのうちの一つがたまたま残っていた。

それをここに再upしておこう。

それは、この本の第11章 『荘子と胡蝶=夢と現実』 の感想だ。

感想というより、この章に書かれていることの紹介だが大変面白い。

2016年7月25日月曜日

『「無限」に魅入られた天才数学者たち』

(和書) 2002年 早川書房、アミール・D. アクゼル, Amir D. Aczel, 青木 薫 訳

***
私が高校で習った無限は、『限りなく小さくなる』 とか 『どんどん大きくなる』 とかいった、いわば極限としての無限だった。

( このテの無限は大学入るとε-δ論法で、『どんどん』 とか 『限りなく』 といった曖昧な言葉は一掃されてしまうのはご承知のとおり。 )

こういう無限は我々の実生活的感覚では馴染みやすい。

ところが 『無限そのもの』 (実無限と称する) をキチンと数学として厳密に取り上げた一人がゲオルク・カントールだった。

数学者という人種は、やはり凄いと言わざるを得ない。
無限を 『数えた』 のだから!!

諸氏は、この意味分かる ? 
分からんだろうね。
私だって分かったとは、とても言えない。

***
1,2,3,・・・・・と数えていって最後はどうなるの ? 
ωになるんだってさ。

と書いても、このテの勉強したことない人には、なんのことやら分からんだろう。

無理もない。凡才と天才の差さだね。

***
掲題の本は、そこらの話が我々凡人でもナントナク分かるように書かれている。

この本の特徴はカントールの無限論 (超限集合論) をユダヤ神秘主義と対比させていて、その点に多くの頁を割いている。

興味ある人は立ち読みでもしたらよい。

***
また、かの有名な、と言っても知らない人には興味もないだろうが、
カントールの連続体仮説 ( ちなみに、この超難問は現在の数学では肯定も否定もできない )や、

かの有名な、と言っても、此れもまた、知らない人には興味もないだろうが、ゲーデルの不完全性定理などが素人向けに説明されている。

***
カントールは精神病院で死亡。 ゲーデルも精神を病み餓死。

まさに 『 (実) 無限』 という魔物に魅入られたといっても過言ではないだろう。

どうも、数学、ないし実無限なるモノは魔性をもっているらしい。

事実、かの超難問 『ポアンカレ予想』 を解いたロシアの数学者・ペレルマンは数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞受賞を拒否し現在行方不明らしい。キノコ取りをしているという噂(うわさ)もあるらしい。

***
この本の最後に、この本が書かれた当時 (和訳版は2002年) に発見された、集合論の一つ成果としての定理が解説ぬきに紹介されている。いわくシェーラーの定理。
書いてみよう。

-----------------------------------

『いかなるnに対しても、2^アレフn<アレフωならば、2^アレフω<アレフω4である。』

(そもそも、ここではフレフの記号も書けないし、正確な記述も出来ない!!)

専門家を除いて、上の『・・・』の意味が直ちに理解できる人がいたら・・・もし貴方が数学者でなかったら貴方は生き方を間違えている!!! 直ちに数学基礎論者になるべきだ。大げさでなく、それが人類の為にもなる。

この本の著者自身がビックリ・ギョウテンしている。
『どうして、こんなところに4というサプクスリスト(添え字)が出てくるのだ!!!』と。

人類の中にはインド人・ラマヌジャンのように神がかった数学者が確かに存在した。

だからシェーラー定理をたちどころに理解してしまう人が今後出ないとは限らない。

ただ、そういう場合、頭脳の或る異常さという意味で、『天才と狂人の違い』という興味深い問題を我々に残すだろう。

『推計学のすすめ--決定と計画の科学』 (佐藤信著) (その2)

この本に大変面白い、他の話が書いてあるので紹介しよう(p.29)。
----------------------------
あるパーティで三人のお客があり、ホステスが三人のオーバーを預かった。

ところがパーティが解散という時になって突然停電してしまった。

そこでホステスはめくらめっぽうに三人のお客にそれぞれのオーバーを手渡すことになったのであるが、三人とも自分のオーバーを渡されない確率、つまり全員が他人のオーバーを渡される確率はどれ程であろうか?

この確率は実は1/3となる(詳細はこの本p.24参照)。

実は此の話が面白いのは以下の事実である。
お客の数が1000人であろうと、その確率はやはり、ほとんど1/3なのである!!

直感的には、お客の数が多くなれば全員が他人のオーバーを渡される確率はずっと小さくなる、あるいは大きくなると考えるであろうが実はそうではないのである!!
--------------------------------
このことは、科学的に訓練されていない直感が、いかに当てにならないかを示す大変良い例であると著者は言う。

***
掲題の本には、このような話がこの本には満載されいている。

予防注射の効果は? 偽薬の効果は? 目隠しクイズでの当否は? 等等。

この本の最後で著者は以下のように書いている。引用してみよう。
------------------------------------
(推計学を実学として使用していない) 一般の人々も、世論調査、品質調査などの正しい意味を理解し、ごまかしの調査を見破る素地をもつとともに、不確かなカンによる判断を避け、合理的な判断を養うためにも、推計学の基本的な考え方を知っておくことは役に立つに違いない。(中略) 

統計学という権威を盲信したり、逆に経験論をふりまわして無理解ぶりを発揮しないために、少なくとも母集団とか仮説検定とか、標準偏差という言葉が何を意味するかを知っておく必要がある。
-------------------------------------------
この著者の文章は私にも耳の痛い正論である。

世の中は「分からない」ことが多い。その「分からない」ことに対して世間では統計だの確率だのという言葉を盛んに使って説明する。

其の「分からない」ことを科学的に具体的数値として表現するには、統計とか確率とかに拠らざるを得ないだろう。

しかし、肝心の統計とか確率なるものの内容を、ある程度は知っていなければ、人は「分からない」ことを「分かった」かのように盲信するすることになる。

そのような盲信は、「分からない」ことを「わからない」として己の無知を素直に知ることよりもタチが悪いかもことかも知れない。

そうならないためにも、この本は私みたいなド素人向きの良書と言える。

『推計学のすすめ--決定と計画の科学』 (佐藤信著) (その1)

講談社・ブルーバックスに掲題の本がある。

推計学とは推測統計学のことのようだが、私が在職していた頃、この本は仕事に役立つのではないかと思い買った。

この本は今でも私がもっている本の一つであるが、発行日を見ると昭和46年だから、その頃買ったのだろう。

この本は現在でも出版されているらしい。
この本は、それだけ好評ということか。

読んでみれば分かるが、いわゆる推計学の基礎が分かりやすく解説されていて、この学問を実学として仕事に利用する人以外の一般の市井の人にも大変役に立つ本である。

であるからして、私は未だに捨てずに此の本を残している。

***
此の世の中には分からないことが多い。「分からない」 と言っても何も形而上の難問などではなく、私たちの身近な市井生活での 「分からない」 ことである。

その例を挙げよう。この本の始めのほうに漫画風の絵を交えながら平易に解説されている話である。

-----------------------------
或る人が、一切れ100円と書いてあるパン屋から毎日パンを買っている。

しかし毎日買っている其のパンには厚みの差があるように感ぜられる。

そのパン屋は果たして一切れ100円のパンを本当に正直に売っているのだろうか? 

これを 「なんとなく」 とか 「勘(かん)」 などではなく、キチンと科学的に調べるにはどうしたら良いのだろうか ?
 
この種の 「疑惑」 は、まさに市井生活での 「分からないこと」 の代表例だろう。

この種の疑惑を晴らすにはどうしたらよいか? 

その方法は、毎日買うパンの重さを量っておき、その分布を調べることである。

もし、その分布が正規分布 ( ←勿論、この本で平易に解説されている ) にならなければ、そのパン屋は何らかのインチキをしていることが分かる。(この本のp.38~参照)
-----------------------------

***
機械製品をはじめ人の身長などの自然現象は正規分布するものが多いと言う。

逆に、もし、それらが正規分布していなっかたら、そこには、なんらかの不自然な「作為」があるとみてよい。

それが工場で作られる製品ならば工程に異常があることになり是正せねばならない、というわけだ。

2016年7月12日火曜日

『Hop-Frog』(Edgar Allan Poe) の思い出

これは私にとって実に思い出深い短編小説だ。
タイトルを英語で書いたが、だからといって私は英語が得意というわけでは全くない。我が生涯を振り返ってみて、英語は結局あらゆる意味でモノにならなかった。では何故、英語で書くか。それは以下の理由があるからだ。
***
話は昭和37年にさかのぼる。当時私は高校3年生であった。その高校はいわゆる受験校で、現在はどうか知らないが当時は規定の授業は1月始め頃には全て終了し2月以降は大学受験準備のため休校になつていた。1月は各学科で、言ってみれば暇つぶしの授業が行われていた。
私の教室の英語担当の先生は、その『暇つぶし』の英語の授業で、先生手製の『ガリ版刷り』の教材を使用したのだった。
当時はワープロは勿論存在しないし、現在在るような重宝なコピー機も存在しなかった。在るのは油紙のようなものに金属製のペン先でカリカリと手書きして、それをガリ版機なるものに乗せ、インクの付いたローカーで擦って、一枚一枚コピーしていく・・・そんな次第の先生自身による手製教材であった。
先生は其のコピー教材を教室の全生徒に渡し、何の説明もなしに其の教材の英文を自ら読み始め、自ら日本語に訳し始めた。
先生は生徒の誰かを指名して読ませたり訳させたりするような、そんな野暮なことは一切しなかった。
当時、私は生意気にも学校での英語授業なるものを軽蔑しきっていた。英語は所詮は受験のための『お道具』だと割り切っていた。
この授業は毎週1回、1ヶ月間続いたように記憶している。
ところが私は次第に此の先生の授業にだんだん惚れこんでいった。この教材の話の面白さに惹かれていったのだ。
小説らしい、ということは始めから分かっていたが、ともかく先生の和訳の話術も実に素晴らしく私はこの授業が楽しくてしようがなくなった。
今、我が人生を振り返ってみても、こんなに魅惑的な授業、というより魅惑的な時間はその後ほとんど無かったと思う。
この授業の最終回に此の教材の話も終了したのだが、先生が教室から去ろうとするとき同級生の誰かが先生に問いかけた。
この教材の話の作者は誰なのか、と。
すると先生は、黒板に、E.A.Poeと黙って書いてスーと教室から出て行った。
そうかポーだったのか ! と、私は妙に大感激した。
私のこの感激は、文学というものの香りへの感激だったに相違ない。 今でも私は素直にそう思う。
索漠たる受験英語に荒んでいた私は、真の文学の泉が如何なる味であるか、それを知ることができたのは私の心が未だ若かった故でもあるが、なによりも此の授業のおかげだったと言える。
***
そして、当時この授業の素晴らしさに感激した生徒が教室の片隅に居た、ということは恐らく先生はご存知あるまい。
その先生の名前は私は今でも私は憶えている。原崎という先生だった。 
もう半世紀以上も前のことだ。先生は今もご健在なのかどうか、同窓会なるものには一切出席していない私には分からない。
***
その後私は目出度く大学に入学し先ず買ったのが、
Tales of Mystery and Imagination(everyman's library 336)
だった。
この本のカバーには、Hop-Frogが、松明を片手に持って、シャンデリアの鎖につかまり、舞踏会を見下ろす場面の絵が描かれている。この本は今でも私の手元にある。
このHop-Flog の和訳を、その後いくつか読んだのだが、やはり先生の話術には、とうてい及ばない。
もし、先生と同じ程度に和訳できる人は誰だろうと思うときがある。 恐らくそれは芥川龍之介だと思う。
あの江戸小物細工のような凝りに凝った緻密な文章で芥川龍之介が、このHop-Flogを日本語化してくれていたら・・・と思う。


私の感覚では『Hop-Flog』と『地獄変』とは、とてもマッチするのだから。

2016年7月7日木曜日

『ポアンカレ予想を解いた数学者』 (日経BP社)

ドナル・オシア著、日本語版の初版:2007年6月
***
2007年1月、NHK TVで『数学者はキノコ狩りの夢を見る』という数学関連の番組が放送された。その後、再放送されたから観た人は多いかもしれない。ポアンカレ予想という難問があって、2002~2003年にロシアのグリゴリー・ペレルマンによって事実上解決された。
数学のノーベル賞に相当する・・・あるいは其れ以上に価値のあると言う人もいる・・・フィールズ賞を辞退したことでも有名で、この予想(定理)を証明後、数学の世界から姿を消し、田舎で独り密かにキノコ狩りをしているという「うわさ」が立ったそうである。
掲題の本は此の予想の数学の分野であるトポロジー(位相幾何学)の初心者向けの解説及びポアンカレ予想とは如何なる問題か、について書かれた一般読者向けの本である。詳しく知りたい方は本書を読んでいただくとして、上に書いたテレビ番組や本に書かれたことで私が興味を感じたことを以下に書く。勿論、面白いコトは書かれてるが其れらは割愛する。
***
TV番組で、4次元以上の「空間」における「結びめ」を説明するのに、ジェットコースターを用いて解説しているところなど、面白かった。ジェットコースターの、地面に映る影が、複雑な「結びめ」をもっているのに、ジェットコースターそのものは、3次元空間では「結ばれてはいない」というわけ。結ばれていたら脱線してしまう。これと同じことが、3次元空間そのものの、「結びめ」の有無も、より高次元から眺めれば、解るということらしい。上手い解説だと私は思う。

地球の「形」は、球体の形態か、はたまた、ドーナツ状の形態か。今では球体であることが常識になっているが、昔は、分からなかった。その形態を知る方法は・・・などの、この番組や本での解説も分かりやすかった。

では、われわれの、この宇宙は、どういう形をしているのだろう? この話は、3次元空間以上の「形」の話になってくるから、簡単には理解はできない。

この宇宙の形態を知る思考実験があって・・・それが、ポアンカレ予想に密接に関連していて・・・この本で丁寧に解説してくれている。なるほどなぁ~と思うところも多々あって、面白い。

特に、面白かったのは、ダンテの『神曲』の話。ダンテがペアトリーチェと眺める宇宙は、実は3-球面だったに違いないという話。(この本の62頁あたり)

この、我々の宇宙は、一種の「球面」に比較でき、いわば此の超宇宙は、そのような「球面」が、何層にも重なっている。ダンテは、そのような、一つの「球面」に立っていて、そこから、他の宇宙である「球面」を眺めている・・・

しかし、ダンテが現在のトポロジーを知っているはずはないが、その真実を天才として直観していたのだろう。

とんでもなく「分からない」世界だけど、しかし、なんとなく分からなくもないような、不思議な・・・話。 

・要するに我々の宇宙は、結局トポロシ゜ー的に最もシンプルなをしているのというのがポアンカレ予想だが、これは、文学的にも納得できるのではないだろうか。
***
以上が私の感想の断片だが、恐らく、これを読んで、なんのことか分からない人が多いだろう。畢竟、私だって同じだから。


ただ、この世は数学で説明できる世界であり、かつ、我々の宇宙、乃至、我々以外の全宇宙は、最もシンプルに出来ているらしい・・・ということは私如き人間には実に愉快である。

素数の音楽』(マーカス・デェ・ソートイ著、冨永星訳、新潮社)

この本は500頁近い本だが、素数にまつわるエピソード満載の本で、すでに2回読んだ。

いわゆるリーマン予想なるものも、ポアンカレ予想同様に、その予想自体が何を意味しているのか、が先ず、容易に理解できない。

この本でも、リーマン予想の世界は、あまり、よく分からなかった。が、ともあれ面白かった。

ただ、掲題の本を読んだ後、『素数に取り憑かれた人々』(日経BP)を読んで、それなりに理解できた。

掲題の本で、インドの数学者、ラマヌジャンの逸話が紹介されている。

こういう人の頭脳は、一体、どうなっているんだろう? と不思議に思う。

以前、BSテレビで、世界記憶大会というものを紹介していた。
ある意味で、病的とも言えそうな超越的な能力をもった人は確かに存在する。

こう人たちの脳神経の回線は、通常の人とは、どこかが、変わっているのだろう。
ところで、素数論については、ガウスという人も必ず登場する。 凄い人だ。

勿論、ガウスは掲題の本でも、『素数に取り憑かれた人々』にも登場する。

ガウスは数学史上、恐らく、最高の人の一人だろう。この人は電磁気学にも登場する!!

余談だが、磁束密度の単位がガウスなのだから

2016年7月6日水曜日

「ホーキング最新宇宙論」

私は、かって、NECのPC-VANのBOOKS SIG (此のサイトのコミュニティに相当する) で盛んに書き込みをしていた。このことは此の日記で何回か書いた。

そのSIGに、いろいろな人が書き込みをしていた。
もう半世紀以上の昔のことである。

以前、或る人が2chで、当時のBOOKS SIGでの書き込みのログの一部を紹介していた。その中に、私が書いた「ホーキング最新宇宙論」の感想もあった。

書いた日付を見ると'90/12/18となっている。私には懐かしくもあるので、当時、書いたものを此処にコピ゜ペしておこう。

-----------------------------------
カミュは『シジフォスの神話』で(と言っても最初の処しか読んでないけどね、ガリレオの発見した科学的真理を評して”そんな真理は火あぶりにされるには値しない”と書いている。そして次ぎのように続けている。

『地球が太陽の周りをまわるのか太陽が地球の周りをまわるのか、これは実際のところどうでもよいことなのだ。言ってしまえば、これは下らない問題だ。これに反して私は、多くの人間が、人生は生きるに値しないと考えるが故に死んでいくのを眼にしている。(中略)だから、私は人生の意味こそ最も緊急な問題であると判断する。』

私は、このホーキングの一般読者向けの最新の講演集を読みながら、何度も上記のカミュの言葉を思い出した。

この宇宙はホーキングの言うように、それが物理学の言葉であるにせよ、完全に完璧に語り尽くされる時がくるのだろうか。ホーキングは、今世紀中にそれが可能だろうと言う。かの天才・ホーキングの予測なんだから、恐らく、そうだろう。

完璧といっても、不確定性原理などの規定するあいまいさは残存するにせよ、われわれ同胞の人類は、この世の究極のありようを知ってしまうことになる。本当だろうか。そして、もし、それが本当に実現したとき、上記のカミュの言葉はどういう色彩をもってくるのだろうか。

新聞をみれば、今日もまた、沿岸情勢がどうのこうのと騒がしい。カミュの言うように相変わらず人間どもは ”自分たちに生存理由を与える観念や幻想のために殺し合いをするという自己撞着を犯している。”

E=mC^2 は、その神秘的とも思われる美しさをよそに、よく云われるように、人類はその方程式から原爆をも導きだした。

神とは何だか私は知らないけれど、しかし、現代の帝王である物理学が、もし、神は不要だと断言してしまったなら、たとえ、神の無用さが”事実”であったにせよ、それを断言してしまったなら、そのあと、なにが人間に残されるのだろうか。人類の知性の勝利?

(引用、終わり)
--------------------------------

私は此の昔のロクをみながら、私は相変わらず今と変わっていないなと苦笑する。

このログで私は科学を批判的に書いているが、2chで此のログを紹介していた人は、もともと科学に興味がないと思われる人だった。いわゆる文系の書き込みのみしていた。だから、その故に、この私のログをも紹介したのだろう。

私は全面的に、ではないが科学を否定する人間ではない。

***
余談だが、上のログに書いてあるホーキングの予想は完璧に外れた。私の独断だが、今世紀 (21世紀) でも不可能だろう。

月刊誌『トランジスタ技術』

現在も此の雑誌は健在のようだ。私には懐かしい雑誌の一つである。

***
私が大学の理工学部に在籍していた頃、『真空管回路』という講義があった。昭和42年頃である。

トランジタ回路についての講義もあるにはあったが、その内容は主としてトランジスタの原理が主だったと記憶している。トランジスタの応用技術についての講義は少なかったように思う。

私の学部での卒業論文の題名は『トランジスタの応用』だったと記憶している。

当時はトランジスタはゲルマニュウム・トランジスタが市販され始めた頃で、その半導体のh-fe の温度特性は非常に悪く、その特性の悪さを逆利用した卒業論文だった。

私が卒論として其のテーマを選んだ理由は、少しでもトランジスタの応用技術を身につけたかったからだった。

しかし、学校を卒業して或る電気機器製造会社に入社して思い知らされたのは、私の電子回路の応用技術の貧弱さだった。

回路理論は、それなりに自信はあったが、回路応用技術の貧弱さは、実際に或る回路の設計を任された時、無惨にも露呈した。

***

その頃の回路設計で使用れる部品は真空管が主体で、未だ半導体は使われていなかった。その会社では退社後に勉強会があって、その内容は「デジタル回路」だった。その内容も、ANDとは? ORとは? とは、という初歩中の初歩だった。

***

ともかく、電気機器製造会社の設計部門で必須なのは、当然のことながら、任された機器の回路の実際の設計である。その際、学校での専門の教科書は、私には極めて頼りにならなかった。勿論、原理は書いてある。しかし私には非実用的に過ぎた。

恐らく其の責任は私自身にあることは当時も自覚していたが、機器の回路を実際に設計するとき、自身の応用技術の、どうにもならない貧弱さには閉口したものだ。

***

私は其の会社を3年勤めて退社したのだが、その頃、月刊誌『トランジスタ技術』の存在を知った。この雑誌は題名どおり、トランジスタ技術、とりわけ其の応用技術を主として書かれた雑誌であった。まさに私向けの雑誌であった。

その頃、発光ダイオードやオペアンプ等が市販し始めたころで、その部品の応用の方法が解説されていた。私には救いの雑誌だった。

***

この頃から電子・電気回路関連の応用に関する本が市販され始めた。例えば、伊藤健一さんの『アース回路』など。私の弱点を補ってくれる本が、次から次へと市販され始めた。

***

勿論、電子・電気回路技術の根底には、電磁気学や回路理論等が根底にあり、それはそれでエンジニアたちには重要である。

しかし、エンジニアたちが、電気機器製造会社で求められるのは、先ず実際の応用技術である。理論は知っていても設計等が出来ないのでは話にならない。

***

というわけで、私は、月刊誌『トランジスタ技術』は実に重宝な雑誌であり続けた。私が勤めた電気機器製造会社の設計部門の在職中は、この月刊誌は、私にとって重要な「本」の一つだった。

***

余談だが、伊藤健一さんは私は実際見たことがある。勿論、伊藤さんは私を知るはずがない。

というのは、私が勤めた会社に伊藤さんが居たからである。伊藤さんは、確か其の会社の「保健室」の上の階の専用部屋に居た記憶がある。

2016年4月1日金曜日

『安井夫人』(森鴎外)

或る人が言うには鴎外は女性アァンが意外と多いそうだ。
尤も今や年配者だろうが。

『安井夫人』の、佐代
『山椒太夫』の、安寿
『最後の一句』の、いち
『御持院河原の敵討』の、りよ
『澁江抽斎』の、五百

これらの女性たちには共通点がある。

そのなかで私が際立って好きなのは『安井夫人』の、「お佐代さん」。

鴎外は以下のように書いている。

『お佐代さんは必ずや未来に何物かを望んでいただろう。そして瞑目するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれていて、あるいは自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。その望みの対象をば、あるいは何物ともしか弁識していなかったのではあるまいか。』

-------------------------

鴎外の後期の作品の魅力の一つは、このような「人知を超えた、なにものか存在」が通底しているように私には見受けられる点にある。ある種の運命論者に見える。

例えば、『御持院河原の敵討』において、「神仏のご加護」をも必ずしも否定していないように見受けられる。

また『雁』の「お玉」と岡田も、ある運命の糸に、あやつられている。

そこが漱石とは決定的な違いだと私には思われる。

それにしても、お佐代さんの視線は何処へ向けられていたのだろうか? 今生の世俗でないことは確かである。

2016年2月9日火曜日

『檸檬』(梶井基次郎)

久しぶりに再読。

***

----あるいは不審なことが、逆説的な本当であった。それにしても心という奴は何という不思議な奴だろう。

***
ホントニ ソウダナ。

オレも昨夜は一睡もできなかった。

夜だからといって眠らなくたっていいのに、夜になると、オレの詰まらぬ『心』が冴え冴えとオレの神経を尖らせるのだ。

***

夜熟睡しない人間は多かれ少なかれ罪を犯している。
彼らは何をするのか。夜を現存させているのだ。

            (モリス・ブランジュ)

2016年1月14日木曜日

『医学の勝利が国家を滅ぼす』(補足)

限りある国家予算(つまり私たちが支払う税金)、医学の進歩に伴って限りなき増加を続ける医療費。その折り合いをどうするか。これは今後ますます私たちにとって避けては通られない難問です。
この里見清一という臨床医の特別寄稿記事での「処方箋」は、(読んでもらえるのが一番いいのですが)、現実の臨床現場で働いている医師の率直な提案です。
此の世を去る最も良い方法は、他人の迷惑をかけずに、また自身のQOLを下げることなくポックリとオサラバすることです。
しかし、そんなに上手くはいかないのが現実。
***
里見医師はこの投稿記事を以下のように締めくくっています。
『突き詰めると、我々は、「人間はいつまで生きる(生かされる)権利があるのか、「人間は、はいつまで生きる(生かされる)義務があるのか」という問題に直面しているのである。そしてこの難問を我々に突きつけたのは、人類の進歩による「医学の勝利」に他ならない。だから、我々に逃げ道はない。覚悟を決めるときである。』
***
私は里見医師の言うとおりだと思います。
我々は、いわば、深沢一郎の『楢山節考』の主人公の「おりん婆さん」の立場にいるのです。このお婆さんの村では70歳になったら山に捨てられる掟がある。誰が悪いのでもない。この村には、そのような、お婆さんを養うほどの余裕はないからです。

このお婆さんは70歳を前にしても歯も一本も欠けておらず、自らそれを恥じて、わざわざ折る。そして孝行息子に背負されて死の旅路へと出向くのです。村の掟を守るために・・・

2016年1月12日火曜日

『医学の勝利が国家を滅ぼす』

新薬の公的コストが国家財政の大きな負担となり、そのまま放置すれば国家財政破綻となり日本国は沈没に帰す、という話は世事に疎い私の耳にも聞こえてくる。

この国家的な危機についての解説が、先日、図書館から借りた月刊誌『新潮45』(2015年11月号)に掲載されている。里見清一という臨床医の特別寄稿『医学の勝利が国家を滅ぼす』がそれだ。

***

この特別寄稿は、臨床医の立場から、私のようなド素人でもナルホドと理解できる言わば啓蒙の記事であり、警鐘の記事でもある。

確かに此の問題を放置すれば日本国沈没は必須であろうことは、此の記事に書かれた具体的事例を読めばよく分かる。

***

日本国の其の財政破綻を救う唯一の処方箋は、筆者によれば以下の結論となる。

即ち、以下を法制化する。

『75歳以上の全ての日本国民の患者の延命治療は禁止し、対症療法のみとする』

***

この法制化の理由と根拠を、此の記事(5頁)で丁寧に具体的に分かり易く説明していて私も大賛成である。

人生に病はつきものである。病者にとって如何に其のQOL(生活の質)を保つか、それは我々にとって極めて身近な問題である。

***

できたら、この記事を読まれることを勧める。