三島由紀夫は内田百閒の小説を評して『俳画風の鬼気』と言っている。
事実、『東京日記』も、そのように評してもよいだろう。
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この小説は23の短篇によつて構成されている。
その、いずれの話も、なんでもない「日常性」のなかで、「私」が体験する、「非日常性」である。 幽霊や鬼婆が出てくるわけでもない。
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私は以前の記事(私のブログの「雑感」で『日常性の中の不条理』について書いた。
https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=6510294281337842087#editor/target=post;postID=1134433467278334483;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=0;src=postname
この記事で『NHKラジオの日曜名作座という番組で、百鬼園夜話と題された語りが放送された』と書いたが、まさに、『東京日記』のいずれの話も、「私」が体験する、『日常性の中の不条理』である。
その『不条理性』は、「私」だけが体験するもので、悪夢、というより、一種の「拠り所の無さ」の体験である。
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私自身が、よく見る夢に、「自分が何処に居るのか分からない」とか「自分の行く場所が分からない」という、或る「拠り所のなさ」で不安な体験をすることがある。これは夢なんだと夢のなかで思っているときもある。
このような体験は精神分析上で、何か説明できるのかどうか私は知らないが、ともかく私は、私自身の体験として、自身の「拠り所のなさ」を実感する場合が多々ある。
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この『東京日記』の、どの話も、「私」という者の「拠り所のなさ」と言えるだろう。
( 夏目漱石の『夢十夜』の話と共通点があるかも知れない。しかし『夢十夜』よりも、内田百閒の世界は、より「曖昧」で、三島由紀夫が評したように「俳画風」である。)
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そういう意味で、特に私が面白いと思うのは (その8) の話。
この話に登場する「女」は、落語の「むじな」ようでもあり、また、『思い出そうとしても、どうしても思い出せない「女」でもある。小泉八雲の『怪談』をも連想させる。
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ちなみに、三島由紀夫が、『私にはいまだに怖いのは (その16) のトンカツ屋の話』だそうである。