タルコフスキーが亡くなったのは1987年1月ですが、その直後だったか、NHK・TVで追悼の番組が放送されました。その番組で、武満徹が、『ストーカー』の音楽について語っていたのを印象深く記憶しています。
語っていたのは、『ストーカー』の、あるシーンのBGMでした。そのシーンとは、この映画の主人公たち(ストーカー、学者、小説家)が、トロッコ(軌道車)に乗って「ゾーン」へ行く場面です。このシーンで、トロッコの、カタンカタンという車輪の機械的な音が、シンセサイザーによって、次第に、変調されていきます。(この映画の音楽作曲はエドワード・アルテミエフ)
この場面は、かなり長く、このBGMのなかで、三人の顔が、丁寧に、丁寧に、ゆっくりと、クローズアップされていく。三人の会話は一切なく、荒涼としたロシアの風景を背景に、ただただ、この男たちの寡黙な顔が写されていく。アルテミエフのBGMも、この場面に、実にマッチしていて、このタルコフスキー独特の、ゆったりとした“時間のながれ”か゜、とても心地良い。
この場面は、タルコフスキーのみならず、「映画の場面」の中で、私の最も好きなものの一つです。
さて、『映像のポエジア』。この本のなかで、日本人にとって興味深いことが書かれています。それは俳句について。タルコフスキーは、日本の俳句に大変魅了されたようで、彼は俳句について、この本で、こう書き出します。『日本の古典詩に私が魅せられるのは(以下略)』
この本を読んでいて、俳句を古典詩と表現されること自体が、先ず、私は驚きました。言われてみれば、確かに俳句は、古典詩とも言えるのも知れないのですが。
そして、タルコフスキーは、ある俳句について、こう書いています。『なんと簡潔で、また正確な観察だろうか! 規則正しい知性、高尚な想像力!(以下略)』
この俳句に対するタルコフスキーの尋常ならぬ賛美には、私は、ちょっと、まごついてしまう。
この本で、タルコフスキーは三句を例として挙げていて、その一つとして、有名な芭蕉の俳句『古池や蛙飛び込む水の音』を挙げています。
この本では、この俳句は、以下のように「翻訳」されています。
『古い池。
水に飛び込む蛙。
しじまのひびき。 』
タルコフスキーの日本語の知識がと゜の程度あったのかは知りませんが、この芭蕉の俳句を、上記の三行の文の何語かの翻訳で恐らく彼は知ったのでしょう。上記の、日本語の三行の文そのものは、その翻訳の更に日本語への翻訳となりますから、話が、ややこしくなるのですが、、この本のここを読んでいて、私が思ったことは、『理解とは、一体どのようなことだろうか』ということです。
この日本という国では、上手下手はともかくとして、俳句は、小学生でも作りますし、半日がかりの俳句番組がテレビで放送され、全国から何千という俳句が、その番組に寄せられたりします。
俳句というものは、日本人にとっては、箸のように、日常生活に溶け込んでいる「文化」の一つだと思われます。日本という国に生まされ、いやがおうでも、この日本という風土に、どっぷりと浸かされて生きている人間にとって、『古池や・・・』の俳句の理解は、すでに本能的に感知できるものであり、この感知は、なにものかの匂いの感知と同等な意識下の感覚的なものであり、学んで得られる「知識」以前のもの、と私は思います。
ですから、『古池や・・・』の「匂い」は、あきらかに、上記の三行の文とは違う、と私は感じます。いわゆる学問や知識とは全く無縁な人でも、この日本という風土に密着して生きている人ならば、恐らく、その違いを、本能的な感覚として察知できるのではないか。この三行は、『古池や・・・』の説明であって、決して、その「匂い」ではありません。少なくとも私はそう思います。
タルコフスキーほどの人は、「翻訳」というフィルターを通しながらも、その「匂い」を的確に感知しえたのだろうと思いますが、勿論私を含めて、一般の人が、他の国の文化というものを頭の上の知識ではなく、その「匂い」まで果たして感知できるか・・・これは不可能に限りなく近いことではないか、と私は思います。
このことは、今度は立場を変えて、私がタルコフスキーの映画を観るときについても言えます。もし私がロシアに生まれ、ロシアの風土にどっぷりと浸っていたならば、上記した映画の場面も、かなり違った印象をもつに違いありません。
「文化」というものは、その国の中で汗水たらして浸らなければ理解できないものだとすれば、そして、映画のみならず芸術一般が、その国の「文化」に深く根ざしているものとするならば、「芸術は世界の誰にでも理解できる普遍的なものである」、と言われがちですが、それも真実なんでしょうが、また反面、必ずしもそうではないかも知れません。