2014年11月26日水曜日

『落葉の隣り』 (山本周五郎)


私は一般に長編小説は苦手である。その理由は私はセッカチだからだ。(私の此の性格は我が半生において私自身を実に苦しめてきたものだ)

幸いにして山本周五郎は中短編小説が多い。掲題の小説は、図書館から借りた山本周五郎全集(新潮社)の中の一巻に収められていた。昭和34年に発表された作品だ。

これは私の感想メモであるから小説のストリーは書かないが、此の短編は、まさに山本周五郎ワールドを最も堪能できる作品の中の一つだと私は思う。

己の感想ブログに他人の感想を転記するのは安易なコトでヤリたくないことだが、奥野建男が此の本の最後で『落葉の隣り』の感想を書いている。私も全く同感であり、よくぞ書いてくれたと思うので、少し長いが引用しよう。

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『落葉の隣り』を読むと、江戸の職人町に住む庶民の雰囲気と人情がそくそくと伝わってくる。繁次と参吉の友情、おひさへの諦めに似た愛情、そして参吉への信頼は裏切られ、おひさは『やぶからし』と同じように、だめになった男にひかれて行くかけちがった恋のかなしさ、途中までの「落葉の雨の・・・」の端唄がいつまでも心の中に沁みついている。ここに、つつましい人間の生活が、どうにもならない宿命が、生きるさびしさが、さりげなく、そして深く表現されている。忘れていた文学の故郷とも言うべき絶品であり、ぼくのもっとも好きな小説である。

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山本周五郎の作品全てに言えることだろうが、たとえ短編でも、そこに描かれている人間たちの哀歓の表現は、通り一辺の上っ面のものでなく、読む人の心の襞(ひだ)に深くしみ込んでいく。ことに此の『落葉の隣り』に描かれた名もない庶民たちの哀歓には私は心うたれた。

私は此の小説を読み終わって、暫く、本を閉じられなかった。
そして此の端唄も私の耳の奥で、いつまでも、かすかに聞こえるようであった。

「落葉に雨の音を聞く、隣りは恋のむつごとやーーーー」

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この短編は『その木戸を通って』同様に私にとっても忘れ得ぬ小説となるに違いない。

2014年8月12日火曜日

『無限の果てに何があるか・現代数学の招待』(足立恒夫著)

『無限の果てに何があるか・現代数学の招待』(足立恒夫著、光文社・知恵の森文庫)

著者は此の本のブロローグで以下ように書いている。

『中世の暗闇的段階にどまっている(現代の)世間一般の数学的知識を、現代数学の基礎がかたまった二十世紀前半ころの数学のレベルにまで高めよう、という意欲をもって書いた試論、いわゆるエッセーである。(中略)ぼんやりとでも現代数学の思想をわきまえていなければ、世界観に欠陥があると言えるのではないか、という挑発的問いかけのもとに、文化系の教養をもった読者を想定して(中略)現代数学の精神を、まっ正面から解説したものである。』

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著者は『文科系の教養をもった読者を想定して』と書いているが、おそらく大多数の理工系読者も含めたほうがよいと私は思う。特定の専門家を除いて、果たして例えば虚数とは何かを理解している者は理工系の者・・・現役者、退役者を問わず・・・稀有ではないだろうか。この本は、そういう意味で現在を生きている人全てに対する数学解説書と言える。

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文庫本サイズで、とても読みやすい。虚数や集合などを、やさしく説明してくれている。260頁ほどの本だが、小生は、何回か読んでいる。数学の本は、何度よんでも飽きない点がよい。読めば読むほど理解が深まる。持ち運ぶには手ごろのサイズの本なので、病院の待合時間に読むにも、好適な良書だ。また何回も読み返す本だ。ただし「寝転がって読める(理解できる」本では決してない。数学は、そんなに甘くはないと著者は警告してもいる。

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映画『博士の愛した数式』(監督:小泉堯史、主演:寺尾聡)で、登場する有名なオイラーの公式は、この本では、e^(2πi)=1という公式で登場するが、この本では以下のように解説されている。即ち、『「πは幾何学的な基本量」「eは解析的に基本量」「iは代数的な基本量」であり、それらの量の間に、e^(2πi)=1という目を見張るような関係が成り立』ち、『この関係式を学んで数学を志すことにしたという話もよく聞く』。

確かに此の公式は神秘的なほどに美しい。これほど簡潔で完璧な美しい公式は他に無いだろう。「博士」が愛するのも、むべなるかな、である。

『読み解き 般若心経』(伊藤比呂美著、朝日新聞社)

『読み解き 般若心経』(伊藤比呂美著、朝日新聞社)

私はちょっと覚えておきたい言葉などをメモしている。以下はそのメモだ。蓮如の言葉(御文=おふみ)だそうだ。( 以下の言葉は読みやすいように私が勝手に空白行を入れた。)
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夫(それ)人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり。

さればいまだ万歳(まんざい)の人身(じんしん)をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。

我やさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしづく、すゑの露よりもしげしといへり。されば朝(あした)に紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。

すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李(とうり)のよそほひをうしなひぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外(やがい)におくりて夜半(よわ)のけふとなしはてぬれば、ただ白骨(はっこつ)のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。

されば人間のはかなきことは老少(ろうしょう)不定(ふじょう)のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏まうすべきものなり。

あなかしこ。あなかしこ。
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『読み解き 般若心経』(伊藤比呂美著、朝日新聞社版)という本があって、著者がこの御文(おふみ)「白骨」を以下のように現代語訳している。この訳が私はおもしろいと思うので、それを引用しよう。(この文章も私が勝手に空白行をいれた。)
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つまりこういうことでございます。

ただよっているような人の生きざまを、つらつら観察しておりまして、はかないなぁと感じるのは人のいのち。はじまるときもその途中でも終わるときも、まぼろしのような人のいのちです。
そういうわけで、

一万年生きた人の話は聞いたことはございません。
一生はすぐ終わります。百年間、老いずに生きた人が、これまでにおりますか。

自分が先か、人が先か、今日かも知れない、明日かも知れない、滴が、木の根元に落ちたり葉末にひっかかったりするよりも、せわしく、人は、死に後れたり生き急いだりしてゆきます。

そういうわけで、朝のうちにあかいほっぺをかがやかせておっても夕方には白骨となってしまうかもしれない身の上です。

今にも無常の風が吹いてくれば二つの目はたちまち閉じる。一つの息はたちまち絶える。笑顔がむなしく死に顔となり、花のようだった美しさが消えてなくなる。そのとき、親類縁者が集まって嘆き悲しんだところで、もう、どうしようもない。

ほっとくわけにもいきませんから、野辺の送りをして夜のうちに煙となる。そして、白骨だけが残るのであります。あわれというだけでは、とうてい言い足りませぬ。

おわかりいただけましたか。

人間のはかないことは、老いも若きもありませんから、どなたもお若いうちから、いつかは死ぬのだということを心がけ、阿弥陀仏におまかせして、念仏をおとなえすべきなんであります。

失礼しました。
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現代は、『百年間、老いずに生きた人が、これまでにおりますか。』には訂正しなければならない時代になるかも知れないが、恐らく二百年生きる人は流石に将来でもあるまい。

また、かっては信長が愛好したといわれる幸若・敦盛では、
『人間五十年、化転の中をくらぶれば夢まぼろしのごとくなり。一たび生を受けて滅せぬ者のあるべきか。』と謡われた。五十年にしろ二百年にしろ我われは無常であることには変わりはない。 
***

中世の今様に以下のようなものがある。

昨日見し人今日はなし
今日見る人も明日はあらじ
明日とは知らぬ我なれど
今日は人こそかなしけれ

***
ところで『今日は人こそかなしけれ』の『かなしみ』とはなんだろう。
勿論、「悲しみ」ではない。「哀れ」とも違う気がする。強いて言えば、「懐かしみ」に近い情感だろうか。

『明日とは知らぬ我なれど』だが私は今日も病院通いを続けている。 思えば、結局は無駄な努力ではあるのだが、

『阿弥陀仏におまかせして、念仏をおとなえすべきなんであります。』

この言葉からは私は全く遠いところに居る。いまだかって私は念仏など一度も口にしたことはない。

つまりは、私は縁なき衆生の一人だが、『まぁ、明日は死なないだろう』と思っている嗤うべき存在というところだろう。

『第四次元の小説』(三浦朱門訳)

確か私が中学一年生頃(昭和32年頃)、新聞広告欄に掲題の本の宣伝が載っていたと記憶している。その頃は私は江戸川乱歩の少年探偵団の類を、やっと卒業していたのだが( 何というオクテであることか! )、その代わり霊媒だのといった『超心理学のようなモノ』に私は当時興味をもっていた。 

私は数学にも、そのような超現実的な何やら不思議な世界を勝手にイメージしていた。
( こういう資質の人間に限って数学の才能はないものだ!! ) 

そんな折、第四次元という活字が目に飛び込んできたのだからタマラナイ。
最近は流石に我が感性も鈍りに鈍り、幽霊なるものにも興味はほとんど失せたが、アノ頃は私は怪談大好きのオタクであり、怪談の延長腺上に『第四次元』があったのだ。
ナンカ、オモシロソージャン。と思ったものだ。

ということで、生まれて初めて単行本なるモノを買ったのが掲題の本だった。その頃までは月間雑誌『少年』を講読していた。私はおよそ『いわゆる文学』には興味はなかった。この直後買ったのは小泉八雲の『怪談集』だった。

掲題の本は二十年程前にPC-VAVの人に貸したのだが未だに返却されていない。相手の住所も名前も忘れたし、相手もそうだろう。しかし相手のHNは覚えている。万万が一、この日記を見るかも知れないから言っておこう。「おい、ふみちゃんよ、返せよ」

今やSFなど本屋に山済みされているだろうが、当時はSFという言葉自体もなかったように思う。この掲題の副タイトルは「幻想数学短篇集」であり、空想科学の世界なのだ。

掲題の本は数学を題材とした空想短篇のアンソロジーだ。
・第四次元空間に家を建てる話。
・地下鉄が『メビウスの帯』化した線路を走り行方不明になる話。
・悪魔がフェルマーの定理を解こうとする話。 
          などなど

中学で虚数を習って、虚数とはなんぞや?と妄想にふけって試験に落ちた貴方よ。
貴方はきっとコノの幻想数学短篇集の愛好者だったろう。

訳はなんで三浦朱門?って思ったのは後日のことだが、最近、この人が「ラジオ深夜便」に登場し彼の話を聞いて納得した。三浦綾子が彼を気に入ったのも分かる気がする。
***
此の「幻想数学短篇集」はネットで調べたら未だ発行されている。陰のベストセラーであろう。ところでフェルマーの定理は数年前だったか証明されてしまった。素人数学ファンの夢の一つは今やはかなく崩れたが、例の悪魔は今どうしているのだろう。ポアンカレ予想も解かれたしまったから、リーマン予想にでも取り組んでいるのかも知れない。

ところで第四次元だが、人間が想念するものは何であれ現実化するという説を読んだことがある。芥川龍之介の『龍』だったかが、そうである。この説が本当なら、四つの空間次元をもつ世界も現実にあることになる。ただ、人間はそれを認知出来るようにはプログラムされていないだけである。

およそ人類の認識領域など、たかが知れている。早い話が光の波長がそうであるのは今や中学の理科の教科書に掲載されているだろう。ならば人間の認識領域をはるかに超えたモノがあるのは当然の話であって、ただ人間が認識できないだけである。

そう思うと、まんざら此の世も捨てたものではない。愉快ではないか。

『されど我らが日々ーーー』(柴田翔著)

これは私が読んだ唯一の芥川賞受賞の小説である。文芸春秋に掲載されていた此の小説がいつ発表されたかは、確実に思い出せる。

というのは、大学2年の春から翌年1月まで私は家庭教師をしていたからだ。当事、 (現在も在るのどうか知らないが、目黒、蒲田間を走っていた) 目蒲線での電車の中で、当該雑誌で読んだのだった。

私は目黒から、その電車に乗っていたのだが、バイト先は終点:蒲田の一つ手前の、確か「矢口の渡し」という小さな駅で下車し、徒歩数分の所だった。今思えば、まさに「3丁目の夕日」だかに登場しそうな昭和の狭い商店街を通ったものだ。

私は今でもそうだが面白くない本は直ぐ放り出す。この小説は私は終わりまで読んだのだから面白かったのだろう。この小説に登場する人物たちは、60年安保闘争に挫折した若者達だが、語り手である「私」の友人達は全て自殺し、小説の内容は、その遺書から成立していた、と記憶している。 

芥川賞選定委員の間で此の小説が芥川賞にするかどうか議論されたとき、多くの委員が此の小説の、類型さ・・・つまり余りに多い自殺者の登場が問題にされ、賞の候補に値しないと評価されたとき、石川達三が此の小説を擁護したという。その理由は此の小説には、まぎれもない青春が描かれている、と強く擁護した・・・ということを私は此の雑誌に書かれていた芥川賞選定理由で読んだ記憶がある。

60年安保闘争と言えば、私より先輩にあたる学生運動家達になるが、此の小説を読んでみれば、ここに登場する学生達の挫折感には、なるほど私も共感するものもあり、石川達三の此の小説への評価には私は好感がもてたものだった。

私は、いわゆるノンポリだったが、私の学生時には未だ学生運動は盛んで大学には「立て看」が並び、例の安田講堂攻防戦が始まる頃であり、私は此の小説を或る切実感を持って読んだものだった。

私の友人に、理系にも関らず、いつも文庫本を読んでいる男がいて、その友人に此の小説が面白かったと告げたら、彼は未だ読んでいなかったらしいが、「福永武彦の『草の花』みたいだな。」と言ったことを私は今でも覚えている。

この小説は石川達三の評するように、確かに「青春の時期」が描かれていたと私も思う。しかし今振り返ってみると、その青春には、たとえ自殺する煩悶があるにせよ、やはり若さという何よりも換えがたいモノがあったはずであり、きつい言葉になるかも知れないが、そのような青春は甘いと、今の私は言わざるを得ない。
***
当時私は「3丁目の夕日」をあびながら、バイト先へと通っていたが・・・確か、毎週、木曜日だと記憶しているが・・・、私は、そのとき、いつも、ブラームスの『ハイドンの主題による変奏曲』が私の頭の中で響いていた。これも私の青春の一時期に違いなかった。

この『されど我らが日々ーーー』の巻頭言には次のアポリネールの詩が掲載されていたのも覚えている。  

 思い出は狩りの角笛 風の中で声は死にゆく・・・

『はじめての現代数学』(瀬山士郎著)

講談社現代新書に掲題の本がある。
タイトルから分かるように、一般読者向けに書かれた現代数学の、文字通りの入門書であるが、なかなか、どうして、私はゲーデルの、かの有名な「不完全性定理」を此の本で私なりに理解できた。

「理解できた」と云っても「私なりに」であって、真に理解するには数学基礎論のドクターコースでも理解できるとは言えず、この道の専門家の竹内外史氏によると、プロの数学者でも此の定理を理解しているのは、世界広しと言えども数名だそうである。

私は此の定理を「理解」すべく、いろいろな集合論等の一般読者向けの本を読んできた。

しかし、それらの本の中で最もナルホドと納得できたのは掲題の本での解説であった。

この定理について知らない人はネットで調べるとよい。そこそこに解説している。

もし貴方が数学の素人で此の定理に関心があるならば、この本の第4章「形式の限界・論理学とゲーデル」を一読・・・と云っても、それなりの努力は必要だよ・・・してみるとよい。私同様に、ナルホドと思うだろう。

この世に生まれてきて知らずにあの世に逝くのは勿体ないモノは数々あれど、私に云わせれば此の定理もその一つである

『我が人生の時の人々』(石原慎太郎著)

『我が人生の時の時』が大変面白かったので此の本を読んでみた。
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この本(文藝春秋社)は石原慎太郎と直接交際があった人々の『実像』のお話集。勿論、人物論というものは、所詮、書きて側の主観であって、そもそも純客観的な実像観などはあり得ない。実際のところ、本人すら本人を知らないのが人間というものだから。

一番面白かったのは『三島由紀夫という存在』。言うまでもなく、あの割腹自殺した男の『実像』の話。私は三島由紀夫と同時代でもあったが、遠くから見ていたに過ぎず、ハッキリ言って随分キザったらしい男に見えた。換言すれば時代錯誤の無残なピエロに見えたものだった。

そのキザったらしさは必ずしも私だけの偏見ではないようで、この本でも、そのギザさ加減は辛らつに披露されている。私は週刊誌というものが嫌いで買ったことはない。しかし週刊誌の好きな人は、たぶん、この本で紹介されている話は涎垂ものだろう。

但し、この話の最後の箇所は成程なと思った。三島由紀夫が例の割腹自殺する直前に、実はその様子が遠くからカメラで隠し撮りされていたらしい。その数枚の写真は、ある警察高官に秘蔵されていて石原慎太郎はそれを見せたもらったそうだ。以下、その箇所の引用である。

『私はそれまでに何か三島さんと一緒の写真を撮ったことがあるが、その都度カメラを意識した気負いに辟易したものだ。多分今でも三島邸の神式の祭壇に飾られてあるだろうかの有名な写真も、三島氏がいかにも気に入っていたものだろうが、挑むような気負いにみちみちていた。
それに比べて、あの秘められた最後の写真は、死の寸前故にかねがね、まといついていた自意識が払拭されていかなる表情も殺ぎ落として、何の無理も感じさせず、氏がかねがね願っていたとおり氏は初めて雄雄しく、美しくもある。』

時代錯誤の自意識過剰のピエロが他人には決して見せなかった素顔が、その最後の壮烈な土壇場で遠くから隠し撮りされていたのだ。その素顔が美しかった、というのは私は何か分かるような気がする。

『心中』(森鴎外)

鴎外の『心中』を久しぶりに読んだ。昔、古本屋の店ざらしで、鴎外の此のテの短編を集めた薄い文庫本を売っていた。確か50円程度だったと思う。早速、買った。既に古色をおびた古本そのもので、私は暫く愛読していたものだが、数年前、『身辺整理』時に捨ててしまった本の一つだ。

その時、いろいろな本を捨てたが、今から思えば早まったと後悔している。『百物語』とか『心中』かは、やはり古色をおびた文庫本で読むのが雰囲気として良かったのだが…

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私は子供の頃より気が小さいくせに怪談話や怪異譚が好きであった。中学校の図書室から『猿の手』等を集めた短編集を借りたり、超心理学という言葉自体に意味もなく魅力を感じ、その類の本を借りて読んでいた。勿論、江戸川乱歩や横溝正史の探偵小説のファンでもあったし、そもそも私が数学に魅力を感じたのは (今でもそうなのだが) 、そういう私の好みのヴェクトル上にあって、決して「学問」としての魅力ではない。

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これも随分昔のことになるがテレビ番組で『世にも不思議な物語』という毎週一話の、こわ~い番組があって、楽しみにみていたものだ。日本のものではなくアチラのものだが、今でもタイトルを覚えているものもある。『叫び』とか『染()み』とか『グライダー』とか、いずれも、今で言うJホラーの恐怖心理劇ショートショートであった。松竹映画の『怪猫もの』は、余りに直裁過ぎて流石に敬遠していたが、しかし背筋を冷たい手がそっと触るような感触なモノは、映画でも小説でも何でも興味があるのは私は今でも変わらない。

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これも随分昔になるがNHKの『日曜美術館』で、作者は忘れたが、鉛筆の細密画で、気味悪い絵画が紹介されたことがあった。たしか、この番組でのタイトルは『異形を描く人』というようなものだったと記憶しているが、凝りに凝った異様な其の鉛筆細密画は実に気味悪いもので、私は数ヶ月は其の毒気から抜けられなかった。

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前段の話が長くなったが、この鴎外の『心中』もJホラーのショートショートと言えるだろう。
天下の鴎外の噺であるから文章としても面白い。例えば、

『それから先きは便所の前に、一燭しょくばかりの電灯が一つ附いているだけである。それが遠い、遠い向うにちょんぼり見えていて、却かえってそれが見える為めに、途中の暗黒が暗黒として感ぜられるようである。心理学者が「闇その物が見える」と云う場合に似た感じである。』

という文章。夜中に、ある店やの女中が便所へ行く個所の描写である。
このテの話が好きな人には一読を勧める。



『我が人生の時の時』(石原慎太郎著)

『我が人生の時の時』(石原慎太郎著、新潮社)

私の『本棚』はダンボール一箱だが (数年前、専門書を含めて、ほとんど捨てた) 其の中に残っている数少ない、非理系の本の一つが掲題のエッセー集である。

我が愛読書の一つと言っていいだろう。まさに、夏、読むのに最適な本である。

石原慎太郎と言えば、あの強面の意地悪爺さんの顔を不愉快に思う人が多いだろう。

私は政治に関心がないから其の方面の彼については、どうでも良い。 嫌いな人は勝手に嫌うがよい。

***
此の本は彼の若き日の夏の体験が書かれている。

その体験での彼の視線は、他の人がどう思うが私には実に新鮮であって、其処には青臭い文学青年とは全く異質のものがある。

それを文学と呼ぼうが何と呼ぼうが、此れもどうでもよいことだが、海というものの不気味さと底知れなさが直截な体験として書かれている。

「おか」の鬱陶しい人間関係しか知らない輩(やから)にとっては、全くの別世界が海であって、著者は其の世界の光と闇の体験を語っている。


ショート・ショート風の短いエッセー集だから、このクソ暑い日の午後、この本を読んで海の『闇』に触れるのも一興だろう。

***

作家という人種は多かれ少なかれ不可知論者・・・その正確な定義は棚上げするとして・・・だろうが、政治というクソ・リアリズムの世界の住者でもある此の本の作者が、まさに不可知論者そのものであることに意外な気がする。しかし、ならばこそ、政治などに全く関心のない私が此の短編集を愛読するのだ。

此の本の短編集に通底しているのは、まさに不可知の世界だ。

人の人生にとって最大にして最も深淵な問題は、己あるいは親しきモノの死に相違ないが、此の短編集はなんらかの形において死が直接・間接に潜んでいる。

思えば誰にとっても死ほど不可知なモノはない。作者の人生史における或る一瞬の魂の飛翔・・・それが作者の「時の時」だったのだろうが・・・が死に纏(まつ)わる話であるのは至極当然な気がするし、共感もする。

『百物語』(森鴎外)

私はこの短篇も好きだ。この短篇の大きな特徴と思われることは、人生における鴎外の立場を鴎外自身が明確に述べていることだろう。下記の有名な一節がそうだ。

『僕は生まれながらの傍観者である。子供に混じって遊んだ初めから大人になって社交上尊卑種々の集会に出て行くようになった後まで、どんな感興のわきたったときも、僕はその渦巻に身を投じて、しんから楽しんだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役はしたことがない。たかがスタチスト (注:端役)なのである。』 (文中の注は私が付記した)

また鴎外は『予が立場』という文章( と言ってもインタビューに答える談話のようだが )、ここで鴎外は以下のように語っている。

『私の心持をなんということばでいいあらわしたらいいかというと、resignation (注:諦念)だといってよろしいようです。文芸ばかりではない。世の中のどの方面においてもこの心持でいる。それでよその人が、私のことをさぞ苦痛しているだろうと思っているときに、私は存外平気でいるのです。もちろんresignationの状態というものは意気地のないものかも知れない。その辺りは私のほうで別に弁解しようとは思いません。』 (注:文中の注は私が付記した)


あるいは、『妄想』という文章で鴎外はこうも書いている。

『自分には死の恐怖がないと同時にマインレンデル (注:ドイツの哲学者。ショーペンハウエルの厭世哲学を信奉し自殺を賛美してみずから生命を絶った。)の「死の憧憬」もない。
死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下っていく。』 (文中の注は私が付記した)

これらの文章が書かれた時期は『百物語』が明治44年、『予が立場』が明治42年、そして『妄想』が明治44年であるから、これらは、ほぼ同時期だといえる。鴎外は大正11年に亡くなっているから、これらの文章は鴎外晩年の心境を見せている。

鴎外は他の作品でも、ある種のペシミズムというより鴎外自身が言うresignationを垣間見せているが、それを一種のスタンドプレーと見る人もいるかも知れない。そう思う人は勝手であるが、私はそうはみない。上記した文章は鴎外の正直な心情だと私は思っている。

芥川龍之介は森鴎外を評して、『先生は僕らのように神経質ではない。』という意味のことを何かに書いていたが、鴎外のresignationは、いわゆる文学青年の苦悩という名の感傷もしくは自己満足とは性質が根本において違うと私は思う。要するに感傷ではなく諦観なのだ。

さて『百物語』だが、この短篇に私が惹かれるのは上記した『傍観者』云々が直接書かれているからではない。

むしろ『傍観者』たる作者の乾いたresignationが、この短篇の噺に音もなく底流している。この索漠とした読後感はむしろ私には心地よい。

鴎外の『脳髄の物置のすみに転がってい』たというこの噺は、その湿度の低さにおいて全く日本人離れした短篇であり、まさに鴎外的世界の典型だと私は思っている。

この短篇の最後。何度読んでも私に深い余韻が残るのは何故だろう。

『僕は黙ってたって、舟から出るとき取りかえられた、歯の斜めにへらされた古下駄をはいて、ぶらりとこの化物屋敷を出た。少し目の慣れるまで、歩きやんだ夕闇の田圃道の草の蔭で蛼(こおろぎ)がかすかに鳴きだしていた。』

『ボアンカレ予想を解いた数学者』(ドナル・オシア)著

『ポアンカレ予想を解いた数学者』(ドナル・オシア著、糸川洋訳、日経BP社)

この本も大変面白かった。読んだ時期は、一昨年(2008年)の師走だったと思う。小生は工学部・電子工学出身だが、学部での数学の講義は、「解析学入門」と「線型代数学入門」のみで、いわゆるトポロジーは無縁だった。従って、ポアンカレ予想そのものの問題意識自体が理解できていなかったが、素人向けに親切に書かれた、この本て゜、その予想の概観や、数学史的背景を若干でも知ることができた。

この本で、特に面白かったのは、ダンテの「神曲」で、ダンテとペアトリーチェが見た宇宙は3-球面だ、という箇所(p.62~)だ。P.64の図4も、実に面白く、3-球面というものが、どんなものか空想できた。3-球面は、4次元空間同様に、人間の脳は、それを明確に知覚できるようには、「プログラムされていない」。

しかし、それらは、数学的実在には違いなく、数学の思考というものは、人間の、そんな知覚限界を楽々と超えてしまう。数学という学問は大変魅力がある。ともかく、自身の内部に論理矛盾がなければ、「なんでもあり」の世界だから。尤も、ゲーデルの不完全性定理の示す「限界」はあるにせよ。

『安井夫人』(森鴎外)

私は森鴎外の幾つかの小説が好きである。その中の一つが掲題の短編。
この感想を書こうと何か月前に読み返したのだが書くのが伸び伸びになっていた。
知っている人は知っている短編だからストーリーは省略するが、この短編で印象的なのは、後に安井夫人になる若き娘が、ためらいがちに自身の想いを『耳を赤くしながら』告白する箇所だろう。
鴎外の幾つかの小説には似た性質の女性が登場する。その共通した点は、内省的な自律性と、内省的な献身性である。 鴎外好みの女性たちだろう。
***
『安井夫人』が求めていたのは結局何だったろうか。
鴎外自身が其れを問うている。『男性』を超えているのである。 

案外、こういう女性たちは多く居ただろうし、今も居るだろうし、今後も居続けるだろう。 それが女性という存在かも知れない。

『日本的情念の暗部』(馬場あき子)

『日本的情念の暗部』(馬場あき子)

私が以前より再読したいと思っていた本に『鬼の研究』(馬場あき子著)がある。

私は日本の古典文学には全く疎い者で、此の本で縦横に駆使されている其の古典を知らない私が此の本を理解しようとすること自体が無謀であることは本人が最もよく分かっている。

では何故此の本に惹かれるのか。その理由は簡単。
私は『鬼』や『幽霊』が大好き人間であって、ひとえに此れらの超常者が如何なるものか知りたいからだ。

私は数学や物理が好きだが、その理由は・・・説明するのは大変難しいが・・・『鬼』や『幽霊』が好きであることと共通の基盤が実は有る。

***
そこで昨日、図書館から三一書房の『馬場あき子全集・第四巻・古典評論』なる分厚い本を借りてきた。

この本には『鬼の研究』ほか幾つかの評論が掲載されている。

『鬼の研究』は、先に書いたとおり、私には手に負えない評論であるが、それでも私なりに理解できる箇所もあり、それなりに面白い。

私が此の本を読んで別に試験を受ける訳でもなく、何の制約もないのだから、自分に興味ある箇所からツマミ食い式に読んでいる。

とりわけ私は『六条の御息所』と『黒塚』の女たちに興味があって、その箇所は少し背伸びしてでも理解しようと思っている。 彼女たちの鬼になる有様に興味があるのだ。
***
前段の話が長くなったが、此の本には掲題の評論も記載されている。

此のタイトルからして興味津々で私は『鬼の研究』を一休みして此の掲題の評論を読んだ。

勿論、『日本的情念の暗部』は『鬼の研究』を前提とした文脈での『暗部』について書かれている。

***
この私の日記では此の評論に書かれていることの二つのことについて私の感想を簡単に書く。

一つは日本語の『もの』という言葉の特徴について。

これほど曖昧で便利な言葉はない。
何か分からない「ものごと」があったら其れを、とりあえず『もの』と表現しておけば分かった気になる。

著者が面白い指摘をしている。
この曖昧にして重宝な言葉が接頭語として使われるとき、『ものさびしい』『ものすごい』とか使われるように、なぜか明るい感覚や情緒とは結びつかない。

著者の説明によると、古代において『もの』とは『もののけ』のように表現できぬ目に見えぬ或る種の力のことであった、そうである。

この力が『鬼』化していく過程の鋭い分析は『鬼の研究』の何処かで解説されているはずである。それは読んでのお楽しみ。

もう一つは『怨』という言葉。

私はこの言葉ほど『日本的情念の暗部』を感じさせる言葉はないと感じている。

もう、だいぶ前になるが、日本版ホラー映画が世界的にヒットされたと聞く。 まさに日本版ホラーの真髄は『怨』であって、『怒』でも『悲』でもない。

かのドラキュラ氏には『恐』は感じても『怨』は、少なくとも私は微塵も感じない。 私の好きな『幽霊』の本質は『怨』であるからだ。  

この『怨』について著者は以下のように書いている。

『ある訴えをもった闘争集団がシンボルとして旗に「怨」という字をかかげたときの衝撃は、一種名状しがたいものであった。』

この評論が書かれたのは1976年だから、「ある訴えをもった闘争集団」とは、どのような闘争集団か分かるだろう。

この闘争集団がカラ威張りの学生運動ではないところに、此の国の庶民たちに暗く低流している『日本的情念の暗部』を私は著者と共に感ずるのだ。


そして『怨』の字に象徴される『もの』こそ、此の国の『鬼』の系譜に他ならないようだ。

『雁』(森鴎外)

私は鴎外の小説は特に歴史ものが好きだが、この『雁』も大変面白く読んでいる。
この小説は恐らく鴎外の小説の中では最も人気のある小説ではないだろうか。

鴎外の小説の描写の緻密さは凄いと私は思う。この『雁』でもそうであって、岡田が初めて「お玉」と遭遇する箇所の描写は特にそれが際立っている。無縁坂を下った所にある『寂しい家の格子戸』で岡田が「お玉」と偶然に会う箇所がそれだ。

実時間にすれば数秒の出来事が実に緻密に描写されている。ここで、その箇所を引用してもよいが、めんどくさいからやめるが、「お玉」の衣服の仔細さから、何気ない彼女の仕草まで簡潔に描写されていて、その描写は岡田と「お玉」の心理の襞(ひだ)にまで及んでいる。この箇所は、まさに鴎外の簡潔にして完璧な文章の好例だろう。

芥川龍之介の文章の緻密さとは又一味違う緻密さが、鴎外の『雁』のこの箇所に端的に示されている。一味違うとは? 芥川龍之介の文章の緻密さを江戸小物細工に例えると鴎外の緻密さは・・・なんと言ったらいいだろう・・・細工を超えていて、名人が自在に道具を使いこなしている軽快さがある。そこには力(りき)みが一切感じられないのだ。鴎外の特に歴史ものの小説の面白さの一つは、そのような文章の簡潔な自在さにある。

ところで、この『雁』で、もし岡田の投げた石が池の雁に当たらなかったならば、岡田と「お玉」の運命はどうなっていただろうか。もし、という仮定は無情なものだが、鴎外はこの小説の最後でこう書いている。鴎外はそのような仮定は、この『物語の範囲外にある』、『読者は無用な憶測をせぬがよい。』と突き放して、この小説を閉めている。


鴎外は言うまでもなく医者であり科学者であるのだが、私は常々思っているのだが、鴎外のいくつかの小説には、ある種の運命論的な、不可知論な作者の視線があるように私には思える。いわゆる神仏ないし運命と言った人間には手の及ばぬモノへの鴎外の視線を私は感じている。この『雁』という小説も『読者は無用な憶測をせぬがよい。』と鴎外は言ってはいるが、鴎外自身は、岡田と「お玉」の運命の綾を凝視しているように私には思えてならない。

『映像のポエジア』(A.タルコフスキー著)

アンドレイ・タルコフスキーの著作で、「刻印された時間」という副題のついたの『映像のポエジア』(キネマ旬報社発行)という本があります。タルコフスキーの映画の“独特な時間の流れ”に身をゆだねるのが私は好きで、ときどき、録画したものを観ています。

タルコフスキーが亡くなったのは1987年1月ですが、その直後だったか、NHK・TVで追悼の番組が放送されました。その番組で、武満徹が、『ストーカー』の音楽について語っていたのを印象深く記憶しています。

語っていたのは、『ストーカー』の、あるシーンのBGMでした。そのシーンとは、この映画の主人公たち(ストーカー、学者、小説家)が、トロッコ(軌道車)に乗って「ゾーン」へ行く場面です。このシーンで、トロッコの、カタンカタンという車輪の機械的な音が、シンセサイザーによって、次第に、変調されていきます。(この映画の音楽作曲はエドワード・アルテミエフ)

この場面は、かなり長く、このBGMのなかで、三人の顔が、丁寧に、丁寧に、ゆっくりと、クローズアップされていく。三人の会話は一切なく、荒涼としたロシアの風景を背景に、ただただ、この男たちの寡黙な顔が写されていく。アルテミエフのBGMも、この場面に、実にマッチしていて、このタルコフスキー独特の、ゆったりとした“時間のながれ”か゜、とても心地良い。

この場面は、タルコフスキーのみならず、「映画の場面」の中で、私の最も好きなものの一つです。

さて、『映像のポエジア』。この本のなかで、日本人にとって興味深いことが書かれています。それは俳句について。タルコフスキーは、日本の俳句に大変魅了されたようで、彼は俳句について、この本で、こう書き出します。『日本の古典詩に私が魅せられるのは(以下略)』

この本を読んでいて、俳句を古典詩と表現されること自体が、先ず、私は驚きました。言われてみれば、確かに俳句は、古典詩とも言えるのも知れないのですが。

そして、タルコフスキーは、ある俳句について、こう書いています。『なんと簡潔で、また正確な観察だろうか! 規則正しい知性、高尚な想像力!(以下略)』 

この俳句に対するタルコフスキーの尋常ならぬ賛美には、私は、ちょっと、まごついてしまう。

この本で、タルコフスキーは三句を例として挙げていて、その一つとして、有名な芭蕉の俳句『古池や蛙飛び込む水の音』を挙げています。

この本では、この俳句は、以下のように「翻訳」されています。

    『古い池。
     水に飛び込む蛙。
     しじまのひびき。 』

タルコフスキーの日本語の知識がと゜の程度あったのかは知りませんが、この芭蕉の俳句を、上記の三行の文の何語かの翻訳で恐らく彼は知ったのでしょう。上記の、日本語の三行の文そのものは、その翻訳の更に日本語への翻訳となりますから、話が、ややこしくなるのですが、、この本のここを読んでいて、私が思ったことは、『理解とは、一体どのようなことだろうか』ということです。

この日本という国では、上手下手はともかくとして、俳句は、小学生でも作りますし、半日がかりの俳句番組がテレビで放送され、全国から何千という俳句が、その番組に寄せられたりします。

俳句というものは、日本人にとっては、箸のように、日常生活に溶け込んでいる「文化」の一つだと思われます。日本という国に生まされ、いやがおうでも、この日本という風土に、どっぷりと浸かされて生きている人間にとって、『古池や・・・』の俳句の理解は、すでに本能的に感知できるものであり、この感知は、なにものかの匂いの感知と同等な意識下の感覚的なものであり、学んで得られる「知識」以前のもの、と私は思います。

ですから、『古池や・・・』の「匂い」は、あきらかに、上記の三行の文とは違う、と私は感じます。いわゆる学問や知識とは全く無縁な人でも、この日本という風土に密着して生きている人ならば、恐らく、その違いを、本能的な感覚として察知できるのではないか。この三行は、『古池や・・・』の説明であって、決して、その「匂い」ではありません。少なくとも私はそう思います。

タルコフスキーほどの人は、「翻訳」というフィルターを通しながらも、その「匂い」を的確に感知しえたのだろうと思いますが、勿論私を含めて、一般の人が、他の国の文化というものを頭の上の知識ではなく、その「匂い」まで果たして感知できるか・・・これは不可能に限りなく近いことではないか、と私は思います。

このことは、今度は立場を変えて、私がタルコフスキーの映画を観るときについても言えます。もし私がロシアに生まれ、ロシアの風土にどっぷりと浸っていたならば、上記した映画の場面も、かなり違った印象をもつに違いありません。

「文化」というものは、その国の中で汗水たらして浸らなければ理解できないものだとすれば、そして、映画のみならず芸術一般が、その国の「文化」に深く根ざしているものとするならば、「芸術は世界の誰にでも理解できる普遍的なものである」、と言われがちですが、それも真実なんでしょうが、また反面、必ずしもそうではないかも知れません。

『ホロン革命』(アーサー・ケストラー著、工作舎)

ホロン革命』(アーサー・ケストラー著、工作舎)のこと(その1)
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我が人生の来し方を顧みて此の本は私の人生観に決定的な影響を及ぼした本の一つといえる。以下は此の本についての感想である。
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この本を読了したのは、S.60/12/29。この本の最後に、そう、鉛筆書きしてある。
もう、20年前になる。今でも、時々、パラパラと頁をめくって、気に入っている箇所を読んだりしている。この本で特におもしろかったのは、プロローグと、第13,14章だ。
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まず、プロローグについて。

他の生物に比し人類という種の著しい特徴として、著者は人類の狂気について語っている。彼は言う。

『文明の進んだ惑星から公平な観察者がやってきて、クロマニヨン人からアウシュヴィッツまでの人間の歴史を一望すれば、人類はいくつかの点では優れてはいるが、概してひどく病的な生物で、それが生き残れるかどうかを考えるとき、その病のもつ意味は、文化的成果など比べものにならないほど重大である、と結論するに違いない。』

その人類の「病」の原因として、彼は、以下を挙げて説明している。

(1)ワニとウマとヒトとが、同居する人間の脳の矛盾
(2)人間の悲劇を生む過剰な献身
(3)もっとも恐るべき兵器「言語」
(4)死の発見と死の拒絶

例えば、アラン・レネの記録映画『夜と霧』などを観たとき、上記の著者の、これらの人間の病に対する指摘は大変説得力がある。

(1)については、脳科学の進展により、現在は、いくつかの訂正を要する記述があるかも知れないが,私には衝撃的な指摘だった。しかし本質的には(1)の指摘はおそらく現在も未来も妥当だと思われる。人類という生物種が果たして今世紀まで存在しえるのかどうか?、これは決して笑止な問いではない。

(2)については意外に思う人がいるかも知れない。人間は「正義」のためには己の身を焼くことさえする。この例一つとっても(2)は説得力がある。しかも厄介なことに「正義」というイデオロギーは国の数ほど有ると云ってよい。
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実際、キューバ危機は53年前に起きた。私はその時を実体験している一人である。
まかり間違えば人類というより此の地球そのものの破滅は現実になった。
『核の冬』という言葉が流行ったのも其の数年後である。

この53年の間、恐らく、表面化しない『人類の存亡の危機』は何度となくあつたに違いない。

人類の滅亡は遅かれ早かれ必ず到来する。その原因が著者の言うような意味での、言わば『自殺』か、あるいは、もろもろの自然災害に拠る『他殺』かは別にして。

ここでも我々は2011/3/11を体験している。

しかし我々凡人は、結局のところ、そんなことは無い『かのように』生きなければならない。

私は著者の指摘する人類の脳の致命的欠陥を思うとき、オリンピックも憲法云々も結構だが、我々人類の実態は、畢竟『世の中は地獄の上の花見』であると思わざるを得ない。
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『ホロン革命』(アーサー・ケストラー著、工作舎)のこと(その2)
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もう一つ、この本で面白かったのは、第14章。

人間の、もろもろの感覚の限界は、要するに、『そういう現象を想像できないのは、それがありえないことだからではない。人間の脳が、そして神経系がそれに対応できるようにプログラムされていないからである。』(455頁)

このプログラムという表現が新鮮で、分かりやすかった。

事実、4次元空間を知覚できる生物は、この地球上に存在するかも知れない。ここで言う4次元空間とは、縦・横・幅以外の空間次元を指す。人間が3次元空間しか知覚できないのは、人間の脳が、そのようにはプログラムされていないだけのことかも知れないのだ。
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また著者はテレパシーの存在を否定しない。
『テレパシーよりも神秘的なユングの同時性』(419頁)についも詳述している。
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この本の第13章の「大数の法則」の紹介も面白かった。

・大数の法則の不思議1

統計とか確率とかは、小生は全く門外漢だが、面白い学問だと思う。

『ホロン革命』(アーサー・ケストラー著、工作舎)という、これ又とても面白い本がある。この本の終わりのほうの章で、大数の法則の不思議について書かれている。

この本によると、以下の事実があるという。

・ニューヨーク保険局の統計によると、人に咬みついた犬の数の一日平均値は、
1955年は、75.3匹
1956年は、73.6匹
1957年は、73.5匹
1958年は、74.5匹
1959年は、72.4匹

・19世紀のドイツ陸軍で、兵隊を蹴って殺した騎兵隊の馬の数についても、同様な統計的信頼度みられたという。
この二つの例は、ポアソンの式と呼ばれる確率理論式に従っているそうだ。

また、イングランドとウェールズの殺人犯の数も、同様な統計の法則に従っているそうだ。

さらに又、第一次世界大戦以後の、各10年間の殺人犯の数は、人口100万につき、以下のとおりとなるとのこと。
1920~1929年は、3.84人
1930~1939年は、3.27人
1940~1949年は、3.92人
1950~1959年は、3.3人
1960~1969年は、約3.5人

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『ホロン革命』(アーサー・ケストラー著、工作舎)のこと(その3)
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・大数の法則の不思議2

「大数の法則の不思議」の典型例として、この本に、放射性物質の崩壊についての記述がある。

『一個一個は予測不可能な放射性原子が、全体としては完全に予測可能な結果を産む』という事実が、それだ。

一個の放射性原子が突如崩壊をはじめる時間点は、理論的にも実験的にも、全く予測不可能なそうだ。それは、温度とか圧力とかいった化学的、物理的な要因にも影響はされてはいない、とのこと。

つまり、それが崩壊する時間点は、その原子の過去の履歴にも、現在の環境にも依存していない。そこには、一切の因果関係は存在せず、まったく「気まぐれに」崩壊が始まる。

しかし、しかしだ、放射性原子の全体をみてみると、そこには、ある規則が存在する!!半減期がそれだ。半減期というのは、物体中の全原子のうち半分の原子が崩壊するのに要する時間のこと。

そして不思議なことは、この半減期は、完全に予測可能だ、ということ!!

一個一個の原子の崩壊は、他の原子がどうなっているかには全く影響されていないというのに、なぜ、原子全体となると、完全に予測可能な性質が生ずるのか?

個々と、その全体との、この奇妙な関係は、なにゆえに生じるのか?

統計として、あるいは確率として、そうなるんだよ、という回答は、それこそ、ミもフタもない回答だ、小生は思う。

こうした奇妙な例は、確率が有しているパラドックス的性格を、よく示している、とのこと。

すなわち、個々の出来事自体は、独立(無関係)なはずなのに、全体(統計)としてみると、ある統計の法則に従っている!!!
いったい、これは、なぜなのか?
***
数学者:フォン・ノイマンは、この確率が有しているパラドックス的性格を、「ブラック・マジック」と呼んだそうだ。

このパラドックスとは、以下の事実とのこと。
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『確率の理論を使えば、きわめて多くの出来事について、その全体的な結果がうす気味悪いほど正確に予測できるのに、個々の出来事は予測不可能なのである。言い換えれば、われわれは「ひとつの確定を生みだす、きわめて多くの不確定性」あるいは、法則性をもった全体的結果を生み出だす、幾多の無秩序な出来事、とあい対しているのである。』
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しかし、問題は、これがパラドックスであろうとなかろうと、大数の法則は、現実に確かに働いているのだ!!
***
科学は、この世の現象に対して、HOWを説明するだけであって、WHYに対しては説明しない、というコトを耳にするときがある。

そうかも知れない。リンゴは何故落ちるのか? それは、ニュートンの力学の法則故さ。それは、そのとおりだろう。 しかし、それでも、なぜリンゴは落ちるのか? という疑問は消えない。ちょうど、2枚の鏡の中間にあるモノが永遠に反射していくように、いつまでも疑問は消えない・・・。疑問の永遠の連鎖。

WHY?  WHY?  WHY? ・・・・・・・・

***
アーサー・ケストラーは1993年2月、夫人と共に自殺してしまった。巷間では『安楽心中』と話題になったそうだ。


『能の表現(その逆説の美学)』(増田正造著、中公新書)

『能の表現(その逆説の美学)(増田正造著、中公新書)

昭和46年初版の『能の表現(その逆説の美学)(増田正造著、中公新書)という本がある。私が再読している幾つかの本の一つである。

私は子供の頃より能面に惹かれていた。児童向きの東映チャンバラ映画には鬼の面などが、よく登場したからだ。そこで私は自然と能楽という不思議な世界にも惹かれていった。簡素極まる能管・大鼓・小鼓・太鼓、囃し方による音響世界は西洋の交響曲以上の迫力があることも知った。能楽の主人公は大半は霊であった。霊は私向きな存在だった。

そんなこんなで、私は掲題の本を何気なく読んだのであったが、私は此の本により能楽という詩劇の逆説に非常に驚いた。実に新鮮な驚きであった。この本は以下のように始まる。引用しよう。
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散るから花は美しい。散ることをふまえた文化と、散らすまいとつとめる文化と---。日本の西欧の文化の方向を、こう単純に対比してみる。前者を散るからこそ美しいという把握とするならば、後者はその美を永遠ならしめようとする努力する文化のタイプである。(後略)
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あるいは、こうも書いている。
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万物流転をただ詠嘆するのではなく、積極的な無常観としてとらえた『徒然草』の吉田兼好は時代的に言うと世阿弥の一世代先輩にあたる。自然観照に徹したこの中世人は、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」と言い切った。彼は「咲きぬべきほどの梢(こずえ)」や「散りしおれたる庭」などにより深い味わいを主張し、うつろう無常の実相の中に美を感じとった。また雨にむかって月を恋い、家に引きこもって春のゆくえを思うというような、心で見る態度を強調した。
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此の吉田兼好の自然観照を世阿弥は前向きの態度として捉え能楽を発展させたと著者は書いている。 さらに著者は能楽の「逆説」を一つ一つ丁寧に説明していく。
それを箇条風に書いてみよう。
・一期一会の重視。
・動かぬことの重視とその強さ。
・舞台の簡素さが、あらゆる表現を可能にする。
・能面を無表情にすることにより無限表情が可能となった。
・死と老いの重視。特に死や老いの時点・視点から生や若さを見つめるという発想。
・特に老女の重視(『桧垣』など)
などなど・・・

いずれも現代から見れば、まさしく逆説ばかりである。
現代社会の深刻な矛盾・問題を能楽は700年以上も前に先どりしている観がある。
私が特に重視したいのは、老いや死に対する能楽の態度である。

中世の人々は老いや死は極く身近な問題だったかも知れない。
今日において、老いや死は、中世の人々とは別の文脈で深刻な問題となりつつある。
そういう意味でも能楽は単なる古典芸能ではない。700年の時を超えた今日的な芸能に私は思える。


おそらく今日の先鋭的な問題( 超高齢化社会の抱える諸問題 )に対する解答の重要なヒントは能楽の「逆説」にもあるようにも私は思う。

『インド夜想曲』(アントニオ・タブッキ著、)

須賀敦子訳、白水uブックス。

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我ながら好きな小説だなと思う。
やはり訳が良いのだと思う。
この小説は'89年に映画化もされていて監督はアラン・コルノー。   
大体、小説を映画化したものは詰まらないものが多いが、此の映画は原作の味を失うことなく、大いに私は楽しめた。 NHK BSで放送されるのを待っている映画の一つである。
訳文は誠に平易に書かれていて、晦渋でシュールで且つ形而上的な内容にも関らず、まるで童話を読んでいるような錯覚にとらわれる。
訳者の後書きも面白い。
その内容も紹介したいが面倒なので省略。
興味ある人は、或る意味で奇妙な此の小説を読んだ後、のんびりと後書きも読むとよい。


「ある意味で奇妙な此の小説」と私は書いた。
確かに奇妙であると言える。
***
数学の位相幾何学の分野で『メビウスの帯』という有名なモノ(多様体)がある。
それは細長い紙きれの両端において片方の端を180度回転させて両端を張り合わせて出来るモノで、此れは数学的には裏も表も区別できない。
誰でも簡単に作ることができるから暇だったら作ってみるとよい。
此の、ねじれた輪になったモノを真ん中に沿って鋏で切っていったらどうなるか? 試してみると面白いだろう。
この小説の印象を例えるなら、此の『メビウスの帯』の奇妙さだ。
***
「私」は、インドで失踪した「私」の友人を探しにインドを訪れる。
しかし「私」が見つけた友人は、結局、「私」。

ネタバレになりそうだから詳しくは書かないが、此の小説はミステリー小説というには余りに晦渋である。 (上に書いたように童話のように語られるのだが。)
訳者は『インドの深層とも言うべき事物や人物を自ら体験し』と書いているが、そうも言えるだろう。
インドの深層というより、人間の深層ないし闇と言い換えたほうが良いかも知れない。
但し、此の小説は上にも書いたように決して晦渋ではない。 童話と言ったほうが良い。
その童話に、インドの闇なり人間の闇を見つけるのは読者に任されている。
***
以前の感想にも書いたと思うが此の小説の始めに次の文言が引用されている。
この文言は此の小説が如何なる物語であるか象徴していると言えるかも。
----------------
夜熟睡しない人間は多かれ少なかれ罪を犯している。
彼らはなにをするのか。夜を現存させているのだ。
                        モリス・ブランショ

『妄想に憑り付かれる人々』(リー・ベア著、渡辺由佳里訳、日経BP社)

『妄想に憑り付かれる人々』(リー・ベア著、渡辺由佳里訳、日経BP)

フェデリコ・フェリーニの映画に『悪魔の首飾り』という短篇がある。

原作はE.A.ポー『悪魔に首を賭けるな(Never Bet the Devil Your Head))だが、
この映画の主人公は妄想・幻覚に日ごろから悩んでいる。
彼のその妄想・幻覚は少女として現れる。

彼は英国の映画or演劇の人気スターで、ある映画の出演でイタリアに来る。
彼がTVインタビューを受ける場面がある。 インタビュアーと彼とで、こんな会話がされる。

Q「あなたは神経質だとか?」
A「はい。唯一の長所です。」
Q「お酒が好き?」 
A「はい。でも飲むと悲しくなるのです。実は今も泣いているのです。」
Q「神を信じますか?」
A「いいえ」
Q「では、悪魔は?」 
A「悪魔は・・・信じます。」
Q「見たことありますか? ヤギとかコーモリとか?」 
A「いや、そんなじゃあありません。私はカトリックではないので。
    私の悪魔は・・・・かわいい少女。」
***
私はこの映画が好きなので何度も観ている。
観ながら、いつも思うのだ。
一体彼の幻覚・妄想は精神病理上なんと呼ばれるものなんだろうと。

さて、ここから掲題の本の感想にうつる。

この本は、精神病理の素人向けに書かれた本だ。

著者はハーバード大学心理学の脅迫性妄想の専門医で、臨床経験も豊富なようで、本書では症例の具体例を挙げて、それを丁寧に説明している。

この本で著者は『妄想に取り憑かれる』とはどういうことかを、E.A.ポーの短篇『天の邪鬼』を引用して説明している。 このポーの説明が最も完璧にして優雅な表現だと、著者は言う。

そのポーの説明を簡単に説明すると以下のようになるという。

『人間には、生得的に相矛盾する行動をとらせるモノが内在しており、 それを「 天の邪鬼 」とでも呼んでおこう。 そいつのせいによって、 人間の、ある特定の精神が、ある特定の状況におかれたとき、その人間の、不合理な行動への衝動は、 抗いがたいものになる。』

ここで上記の映画にもどると、彼の『不合理な行動への衝動』による結末は、(詳しくは映画を観ていただきたいが)、結果的に鋼鉄のワイヤ線で自身の首をはねるということになる。

彼は、実は、少女という面をかぶった『天邪鬼』に取り憑かれていたのだ。

この天の邪鬼に取り憑かれると『脅迫性障害』という病名がつく状態となるそうだ。

しかし怖ろしいことに、人間は誰しも、この天の邪鬼は極くありふれたものとして自身に内在しているというのだ。

『決してしてはならないことをしてしまう、おぞましい想念』が、この『天邪鬼』の正体であり、それは多少なりとも誰もが持っている、というのだ。

多くの人にとって、それは『シャクのタネ』程度ですみ、無くなっていく。

ところが、ある種の人々には、その天の邪鬼は凶悪化し、その人々を苦悩させ破滅へと導く。  上記の映画では、彼の頭に執拗に内在していた天邪鬼は、少女=悪魔という脅迫性障害を発症させ、その結果、『決してしてはならないコトワイヤによるギロチン』で自身を破滅させる。

『決してしてはならないことをしてしまう衝動』の対象は自身だけではない。
他人にも及ぶ。 わが子にも及ぶ。 ホロコーストから児童虐待など、その例は山ほどあるのだろう。
***
『決してするな』と言われたら、いや言われたればこそ、してしまう人間の心の闇は
謡曲『黒塚』の主題であり、ポーの『天邪鬼』説をまつまでもないことかも知れない。
***
そして、この本によれば、興味深いというより怖ろしいことに、この『おぞましい想念』は人類の遺伝子に組み込まれており、そのような想念をもつ理由を進化論で説明できるというのだ。

(この本のP94~参照)
人類に植え込まれた攻撃的で性的な衝動は、他のほ乳類と共通する下位の脳で管理されている。

この管理は脳の眼窩前頭皮質( つまり目の穴の上に乗り、大きなおでこの裏の部分の脳 )によってなされる。この皮質の役割は下位の脳が作り出した思考や衝動を行動に移すかどうかを決める。

要するに、私たちにとって重要なことは『天邪鬼』は誰にでもいる、ということだ。

すなわち、私たちは『決してしてはならない、不合理な行動への衝動』は私たち自身に実は内在している、ということだ。 例えば児童虐待は決して他人ごとではなく、状況によっては貴方自身が行ってしまうかも知れないということだ。

***
以上、上記については、この本の解説において私の誤解があるかも知れません。

興味あるかたは本書を読んでください。