掲題の本には『能物語』という副題がついている。
この本は能楽の、幾つかの演目を、現代語の文章として『翻訳』したものである。
著者は序章で、能楽は観るものであって読むものではないと、あらかじめ断っている。
では何故著者は、文章として『翻訳』したかというと、この本をキッカケとして多くの人に本物の、お能に接してもらいたいという趣旨のことを書いている。
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また『翻訳』にあたって著者は以下のように留意したと書いている。少し長いが引用してみよう。
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これは、ほんの一例にすぎませんが、お能には、何もしない「間」というものが、いたるところで見いだせます。これは、実際お能を見ていただくよりほかないのですが、目でみる舞踊を、物語に翻訳する際は、白紙にままで残された表現を、言葉でうめる必要がある。
そこで、この本では、いくらか小説的な手法を用いたり、謡本にはない情景描写をつけ加えることもありました。
したがって、この「能物語」は、謡曲の直訳ではなく、忠実な、現代語訳でもありません。しいていえば意訳(全体の意味に重点をおいて訳すこと)に近いかも知れません。(以下略)
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実は私は謡曲全集(全三巻)をもっている。かなり詳しい解説が書かれているから、その気になって読めば謡曲の原文を理解することができる。しかし私は此の全集の一篇『黒塚』しか読んでいない。
私はテレビで放送される能楽は時折観ているが、放送された演目を此の謡曲全集で「予習」なり「復習」をしたことがない。正直なところ、そこまでの熱意がないからだ。
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私は洋の東西を問わず、文芸本の『翻訳』というものに或る偏見をもっている。原文で読まなければ実感は出来ない、という偏見である。
例えば英語で言えば、「red」 と「赤い」は実感として異なると思っている。
つまり小説ならストリーのみ知っても、その小説を実感したことにはならない、という偏見である。私のこの偏見というか悪癖は今更直すことはできない。
そういう私の悪癖があるから、私は此の『能物語』を、能から離れた、一種の怪異譚として読んだ。
そういうふうに読むと此の本は私には何の違和感もなく面白く読めた。特に面白かったのは『大原御幸』だった。
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ただ、此の本を、著者の希望どおりに『能楽への誘い』として読む人の場合は、そのテの本としては好著と言えるかと思う。