『明暗』と『続明暗』(水原美苗著)を読んだ。
実は私は何十年か前にも一度読んだのだが、断片しか覚えていず、今回初めて読んだと言ってもよい。
私は漱石の小説は『門』がお気に入りだが、この『明暗』も面白かったという記億は残っていた。そこで再読したのだ。
***
『明暗』は五六名の登場人物しか出てこないが、その人物たちの心理描写は綿密極まっている。
心理というモノを解剖して、もし心理に『臓器』があるとしたならば、解剖後其の『臓器』を取り出し読者に綿々と解説している観が此の小説にはある。
そういう心理描写に興味のない人は此れほど退屈な小説はないだろう。
***
また此の小説『明暗』は一種のミステリー、あるいは謎解きの読みものとして読める。
私は謎解きとして読んだ。
小説に起承転結があるとすれば、漱石の『明暗』は、『さぁ、その謎は何だろう』という『転』の処で突然、終わっている。漱石が死んでしまって未完になったからだ。
***
その後を引き継いだのが、『続明暗』(水原美苗著)。
その謎は一応、解かれるのだが、果たして其の解が漱石の解か否かは、もはや永久に分からない。そして水原美苗女史の解にも、やはり謎が残存しているように私には見える。
***
『則天去私』は晩年の漱石の理想とする処だそうだが、ネットで調べると以下のように書いているサイトがある。
-------------------------------------
小さな私にとらわれず、身を天地自然にゆだねて生きて行くこと。「則天」は天地自然の法則や普遍的な妥当性に従うこと。「去私」は私心を捨て去ること。
夏目漱石そうせきが晩年に理想とした境地を表した言葉で、宗教的な悟りを意味するとも、漱石の文学観とも解されている。「天てんに則のっとり私わたくしを去さる」と訓読する。
-------------------------------------
水原美苗女史の解は此の『則天去私』に依っているようだが、それに該当するのは私は津田の妻『お延』だけに見える。
水原美苗女史の解は、漱石は『お延』に『則天去私』を委ねたように見える。
津田由雄他の登場者は相変わらず『我』にとらわれたエゴイズムのみで、その後の人生を生き続けるように見える。
特に津田由雄のその後の人生は、お先真っ暗であるように見える。
***
あるいは漱石の解答も、そうだったかも知れない。
深く考えず、誰も普通に読めば、一見、『清子』に漱石は『則天去私』を見ているように思うだろうが、たぶん其れは間違いだろう。
***
結局、漱石が提示した謎は、『続明暗』(水原美苗著)でも解かれなかったように私には思える。
誰か『続続明暗』を書いて正解を提示する人はいないだろうか?
しかし漱石が亡くなった以上、其れは無理な注文だろう。
***
いずれにせよ、この『明暗』という小説は、少し異質な未解決なミステリー小説だと私は思っている。
2015年6月29日月曜日
2015年6月22日月曜日
『魂の叫び声』(白洲正子)
掲題の本には『能物語』という副題がついている。
この本は能楽の、幾つかの演目を、現代語の文章として『翻訳』したものである。
著者は序章で、能楽は観るものであって読むものではないと、あらかじめ断っている。
では何故著者は、文章として『翻訳』したかというと、この本をキッカケとして多くの人に本物の、お能に接してもらいたいという趣旨のことを書いている。
***
また『翻訳』にあたって著者は以下のように留意したと書いている。少し長いが引用してみよう。
-----------------------------------
これは、ほんの一例にすぎませんが、お能には、何もしない「間」というものが、いたるところで見いだせます。これは、実際お能を見ていただくよりほかないのですが、目でみる舞踊を、物語に翻訳する際は、白紙にままで残された表現を、言葉でうめる必要がある。
そこで、この本では、いくらか小説的な手法を用いたり、謡本にはない情景描写をつけ加えることもありました。
したがって、この「能物語」は、謡曲の直訳ではなく、忠実な、現代語訳でもありません。しいていえば意訳(全体の意味に重点をおいて訳すこと)に近いかも知れません。(以下略)
----------------------------------
実は私は謡曲全集(全三巻)をもっている。かなり詳しい解説が書かれているから、その気になって読めば謡曲の原文を理解することができる。しかし私は此の全集の一篇『黒塚』しか読んでいない。
私はテレビで放送される能楽は時折観ているが、放送された演目を此の謡曲全集で「予習」なり「復習」をしたことがない。正直なところ、そこまでの熱意がないからだ。
***
私は洋の東西を問わず、文芸本の『翻訳』というものに或る偏見をもっている。原文で読まなければ実感は出来ない、という偏見である。
例えば英語で言えば、「red」 と「赤い」は実感として異なると思っている。
つまり小説ならストリーのみ知っても、その小説を実感したことにはならない、という偏見である。私のこの偏見というか悪癖は今更直すことはできない。
そういう私の悪癖があるから、私は此の『能物語』を、能から離れた、一種の怪異譚として読んだ。
そういうふうに読むと此の本は私には何の違和感もなく面白く読めた。特に面白かったのは『大原御幸』だった。
***
ただ、此の本を、著者の希望どおりに『能楽への誘い』として読む人の場合は、そのテの本としては好著と言えるかと思う。
この本は能楽の、幾つかの演目を、現代語の文章として『翻訳』したものである。
著者は序章で、能楽は観るものであって読むものではないと、あらかじめ断っている。
では何故著者は、文章として『翻訳』したかというと、この本をキッカケとして多くの人に本物の、お能に接してもらいたいという趣旨のことを書いている。
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また『翻訳』にあたって著者は以下のように留意したと書いている。少し長いが引用してみよう。
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これは、ほんの一例にすぎませんが、お能には、何もしない「間」というものが、いたるところで見いだせます。これは、実際お能を見ていただくよりほかないのですが、目でみる舞踊を、物語に翻訳する際は、白紙にままで残された表現を、言葉でうめる必要がある。
そこで、この本では、いくらか小説的な手法を用いたり、謡本にはない情景描写をつけ加えることもありました。
したがって、この「能物語」は、謡曲の直訳ではなく、忠実な、現代語訳でもありません。しいていえば意訳(全体の意味に重点をおいて訳すこと)に近いかも知れません。(以下略)
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実は私は謡曲全集(全三巻)をもっている。かなり詳しい解説が書かれているから、その気になって読めば謡曲の原文を理解することができる。しかし私は此の全集の一篇『黒塚』しか読んでいない。
私はテレビで放送される能楽は時折観ているが、放送された演目を此の謡曲全集で「予習」なり「復習」をしたことがない。正直なところ、そこまでの熱意がないからだ。
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私は洋の東西を問わず、文芸本の『翻訳』というものに或る偏見をもっている。原文で読まなければ実感は出来ない、という偏見である。
例えば英語で言えば、「red」 と「赤い」は実感として異なると思っている。
つまり小説ならストリーのみ知っても、その小説を実感したことにはならない、という偏見である。私のこの偏見というか悪癖は今更直すことはできない。
そういう私の悪癖があるから、私は此の『能物語』を、能から離れた、一種の怪異譚として読んだ。
そういうふうに読むと此の本は私には何の違和感もなく面白く読めた。特に面白かったのは『大原御幸』だった。
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ただ、此の本を、著者の希望どおりに『能楽への誘い』として読む人の場合は、そのテの本としては好著と言えるかと思う。
2015年6月19日金曜日
『硝子戸の中』(夏目漱石)
『硝子戸の中』を初めて読んだのいつ頃だったろうか。
学生時代ではなかったように思う。
ということは会社勤めの合い間に読んだということになるが、私は会社の休暇ときには仕事関連の知識吸収をするのが精一杯だった。
だから、休暇の僅かの時間に気分転換として、この『硝子戸の中』を読んだのだと思う。
これは小説ではなく39章からなるエッセーである。文庫本で一章が長くて数頁程度だから、辛い仕事の知識吸収の合い間の気分転換に読むには適宜なエッセーだった。
このエッセーを初めて読んだときには特に惹かれたわけではなかったが、何度か読み返すうちに、だんだん惹かれていった。
私は同じものを繰り返して読む癖がある。
その癖により私はこのエッセーは今まで少なくとも10回は読んでいる。そんなに読んでいる理由の一つには、私の大好きな章がこのエッセーの中にあるからだ。それは3章だ。
漱石という人は犬や猫や鳥が好きだったらしい。
というより、人間が嫌いで、その反映として犬や猫や鳥に親しみを感ずるようなタイプの人のようで、私は、そういう人が実は好きなのだ。
私はそういうタイプの人に惹かれる。犬や猫や鳥が嫌いという人間は、私は、それだけで、その人間を好きになれない。嫌いである。顔を見るのも嫌である。
この3章は、漱石が知人から貰った小犬 (たぶん捨て犬の類の何の変哲の無い言わば駄犬 )の思い出を語っている。
漱石宅に貰われてきた子犬は病死するのだが、この経緯を淡々と語る漱石の文章は感傷とは全く無縁であり、それだけに行間から漱石という人の温かみが滲み出ている。
私はこの章の漱石という人を敬愛する。
以下は私の最も好きな文章であるので引用しよう。漱石はこの子犬の名をヘクトーと名づけたいた。
---------------------------------------------
車夫は筵の中にヘクトーの死骸を包んで帰って来た。私はわざとそれに近付かなかった。白木の小さい墓標を買って来さして、それへ「秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ」という一句を書いた。私はそれを家のものに渡して、ヘクトーの眠ってゐる土の上に建てさせた。
彼の墓は猫の墓から東北に當って、ほゞ一間ばかり離れてゐるが、私の書斎の、寒い日の照ない北側の縁に出て、硝子戸のうちから、霜に荒らされた裏庭を覗くと、二つとも能く見える。もう薄黒く朽ち掛けた猫のに比べると、ヘクトーのはまだ生々しく光ってゐる。
然し間もなく二つとも同じ色に古びて、同じく人の眼に付かなくなるだらう。
---------------------------------------------
ここには孤独な漱石の姿がある。硝子戸のうちから、庭の片隅に埋められた犬や猫の墓を黙って見つめている漱石。
そういう漱石という人の姿を、私は遠くから敬愛をこめて眺めている。 そういうことを私はいつも空想する。その空想は私を平穏にする。
***
『硝子戸のうち』の全章に通低しているのものは、漱石の諦観だと私は思う。
このしみじみとした静かな諦観に惹かれて私は、いつのまにか、何度も読み返している。私の憧れとしての漱石の静かな諦観。
このエッセーの最後の39章の最後の一節も私は好きだ。
それも引用しておこう。
-----------------------------------------
まだ鶯が庭で時々鳴く。春風が折々思ひ出したやうに九花蘭の葉を揺かしにくる。猫が何処かで痛く噛まれた米噛を日に曝して、あたゝかさうに眠つてゐる。
先刻迄で護謨風船(ごむふうせん)を揚げて騒いでゐた子供達は、みんな連れ立つて活動写真へ行つてしまつた。
家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放つて、静かな春の光に包まれながら、恍惚(うっとり)と此の稿を終わるのである。さうした後で、私は一寸肱を曲げて、此の縁側に一眠り眠る積りである。
-----------------------------------------
夏目漱石に『文鳥』という短いエッセーがある。
この佳品も『硝子戸の中』の一篇と私はみたい。
家人の不注意により死んだ小鳥を見つめる漱石の視線は、庭の片隅に埋められた犬や猫たちへの視線と同じように私には思えるからだ。
***
ps. 私は最近『明暗』を再読している。
学生時代ではなかったように思う。
ということは会社勤めの合い間に読んだということになるが、私は会社の休暇ときには仕事関連の知識吸収をするのが精一杯だった。
だから、休暇の僅かの時間に気分転換として、この『硝子戸の中』を読んだのだと思う。
これは小説ではなく39章からなるエッセーである。文庫本で一章が長くて数頁程度だから、辛い仕事の知識吸収の合い間の気分転換に読むには適宜なエッセーだった。
このエッセーを初めて読んだときには特に惹かれたわけではなかったが、何度か読み返すうちに、だんだん惹かれていった。
私は同じものを繰り返して読む癖がある。
その癖により私はこのエッセーは今まで少なくとも10回は読んでいる。そんなに読んでいる理由の一つには、私の大好きな章がこのエッセーの中にあるからだ。それは3章だ。
漱石という人は犬や猫や鳥が好きだったらしい。
というより、人間が嫌いで、その反映として犬や猫や鳥に親しみを感ずるようなタイプの人のようで、私は、そういう人が実は好きなのだ。
私はそういうタイプの人に惹かれる。犬や猫や鳥が嫌いという人間は、私は、それだけで、その人間を好きになれない。嫌いである。顔を見るのも嫌である。
この3章は、漱石が知人から貰った小犬 (たぶん捨て犬の類の何の変哲の無い言わば駄犬 )の思い出を語っている。
漱石宅に貰われてきた子犬は病死するのだが、この経緯を淡々と語る漱石の文章は感傷とは全く無縁であり、それだけに行間から漱石という人の温かみが滲み出ている。
私はこの章の漱石という人を敬愛する。
以下は私の最も好きな文章であるので引用しよう。漱石はこの子犬の名をヘクトーと名づけたいた。
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車夫は筵の中にヘクトーの死骸を包んで帰って来た。私はわざとそれに近付かなかった。白木の小さい墓標を買って来さして、それへ「秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ」という一句を書いた。私はそれを家のものに渡して、ヘクトーの眠ってゐる土の上に建てさせた。
彼の墓は猫の墓から東北に當って、ほゞ一間ばかり離れてゐるが、私の書斎の、寒い日の照ない北側の縁に出て、硝子戸のうちから、霜に荒らされた裏庭を覗くと、二つとも能く見える。もう薄黒く朽ち掛けた猫のに比べると、ヘクトーのはまだ生々しく光ってゐる。
然し間もなく二つとも同じ色に古びて、同じく人の眼に付かなくなるだらう。
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ここには孤独な漱石の姿がある。硝子戸のうちから、庭の片隅に埋められた犬や猫の墓を黙って見つめている漱石。
そういう漱石という人の姿を、私は遠くから敬愛をこめて眺めている。 そういうことを私はいつも空想する。その空想は私を平穏にする。
***
『硝子戸のうち』の全章に通低しているのものは、漱石の諦観だと私は思う。
このしみじみとした静かな諦観に惹かれて私は、いつのまにか、何度も読み返している。私の憧れとしての漱石の静かな諦観。
このエッセーの最後の39章の最後の一節も私は好きだ。
それも引用しておこう。
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まだ鶯が庭で時々鳴く。春風が折々思ひ出したやうに九花蘭の葉を揺かしにくる。猫が何処かで痛く噛まれた米噛を日に曝して、あたゝかさうに眠つてゐる。
先刻迄で護謨風船(ごむふうせん)を揚げて騒いでゐた子供達は、みんな連れ立つて活動写真へ行つてしまつた。
家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放つて、静かな春の光に包まれながら、恍惚(うっとり)と此の稿を終わるのである。さうした後で、私は一寸肱を曲げて、此の縁側に一眠り眠る積りである。
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夏目漱石に『文鳥』という短いエッセーがある。
この佳品も『硝子戸の中』の一篇と私はみたい。
家人の不注意により死んだ小鳥を見つめる漱石の視線は、庭の片隅に埋められた犬や猫たちへの視線と同じように私には思えるからだ。
***
ps. 私は最近『明暗』を再読している。
2015年6月18日木曜日
『素数に取り憑かれた人々』(ジョン・ダービーシャー著、日経BP社)
掲題の本は『リーマン予想』の一般読者向けの解説書である。
著者は此の本を読んで『リーマン予想』が何を意味しているか理解できなければ、どの本を読んでも理解できないだろうと断言している。
なるほど、この本では高校の数学にもどって、懇切丁寧に必要な数学の基礎知識から解説している。
この本で『オイラーの積の公式』が解説されている。
***
オイラーの積の公式とは以下の等式を言う。
1より大きい変数をs、正整数をn、素数をpとするとき、
1+1/2^s+1/3^s+1/4^s+1/5^s+1/6^s+・・・・+1/n^s+・・・・・
={1/(1-2^-s)}{1/(1-3^-s)}{1/(1-5^-s)}{1/(1-7^-s)}・・・・{1/(1-p^-s)}・・・・・・
このテの話に慣れていない人は上式を見ただけでウンザリするだろうが、この式が成立することの証明は、たぶん大学受験レベルの問題となるだろう。
***
著者は此の式の証明が書かれた数学の教科書を調べあげ、一番理解し易い証明方法を見つけたそうである。
そこで、一応、念のため、オイラーの原本での証明を調べてみたところ、なんとオイラー自身の証明のほうが遥かに簡潔で理解が容易であることが分かったそうである。
この本では此のオイラーの証明方法によって上式を証明・解説している。
それを読むとナルホド・ナルホドと大納得してしまう。このオイラーの証明は中学生でも容易に理解できるだろう。
著者は、こう書いている。
『原典に当たるに越したことはないとは、やはり真実である。』
これは一般的な教訓でもある。
***
モノゴトを真に理解していない人間ほど、そのモノゴトを晦渋に説明する、という教訓である。
勿論、私の自戒の言葉でもある。
ちなみに、上式はsを複素変数とするとζ(ゼータ)関数といって、知る人ぞ知る超難問:リーマン予想の主題の式である。
上記の本はリーマン予想に関しての一般読者向けのお勧めの本である。
著者は此の本を読んで『リーマン予想』が何を意味しているか理解できなければ、どの本を読んでも理解できないだろうと断言している。
なるほど、この本では高校の数学にもどって、懇切丁寧に必要な数学の基礎知識から解説している。
この本で『オイラーの積の公式』が解説されている。
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オイラーの積の公式とは以下の等式を言う。
1より大きい変数をs、正整数をn、素数をpとするとき、
1+1/2^s+1/3^s+1/4^s+1/5^s+1/6^s+・・・・+1/n^s+・・・・・
={1/(1-2^-s)}{1/(1-3^-s)}{1/(1-5^-s)}{1/(1-7^-s)}・・・・{1/(1-p^-s)}・・・・・・
このテの話に慣れていない人は上式を見ただけでウンザリするだろうが、この式が成立することの証明は、たぶん大学受験レベルの問題となるだろう。
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著者は此の式の証明が書かれた数学の教科書を調べあげ、一番理解し易い証明方法を見つけたそうである。
そこで、一応、念のため、オイラーの原本での証明を調べてみたところ、なんとオイラー自身の証明のほうが遥かに簡潔で理解が容易であることが分かったそうである。
この本では此のオイラーの証明方法によって上式を証明・解説している。
それを読むとナルホド・ナルホドと大納得してしまう。このオイラーの証明は中学生でも容易に理解できるだろう。
著者は、こう書いている。
『原典に当たるに越したことはないとは、やはり真実である。』
これは一般的な教訓でもある。
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モノゴトを真に理解していない人間ほど、そのモノゴトを晦渋に説明する、という教訓である。
勿論、私の自戒の言葉でもある。
ちなみに、上式はsを複素変数とするとζ(ゼータ)関数といって、知る人ぞ知る超難問:リーマン予想の主題の式である。
上記の本はリーマン予想に関しての一般読者向けのお勧めの本である。
2015年6月6日土曜日
『猟奇歌』 (夢野久作)
たぶん多くの人が覚えているだろうが、2008年6月8日、秋葉原通り魔事件が起きた。
昼日中、加藤某なる青年が秋葉原の交差点へ、2トントラックで突っ込み、横断中の人々を無差別に殺傷した事件であった。
その事件の数日後、或る作家が或る詩人の詩を当地の新聞で紹介していた。その詩は、まるで此の事件を予告していた観のある詩であった。私は其の詩をみて、詩人の感性の生々しさに驚いたものだった。
***
紹介されていた其の詩は夢野久作の『猟奇歌』だと記憶していたつもりだったが、今回、この日記を書くに当たって、青空文庫で『猟奇歌』を調べてみた。しかし私が記憶しているような詩は見つからなかった。
たしか、トラックで人ごみに突っ込み、その現場が血潮に染まる・・・というような詩と記憶していたが、どうも私の勘違いらしい。
***
夢野久作の『猟奇歌』は特異な歌ばかりで、まさに猟奇だが、私は此の歌集は嫌いではない。人によっては眉をひそめるかも知れない。彼の歌の詩を二つ転記してみよう。
--------------------------------
殺すくらゐ 何でもない
と思ひつゝ人ごみの中を
濶歩して行く
ある名をば 叮嚀ていねいに書き
ていねいに 抹殺をして
焼きすてる心
ある女の写真の眼玉にペン先の
赤いインキを
注射して見る
この夫人をくびり殺して
捕はれてみたし
と思ふ応接間かな
わが胸に邪悪の森あり
時折りに
啄木鳥の来てたゝきやまずも
-------------------------------------
何者か殺し度い気持ち
たゞひとり
アハ/\/\と高笑ひする
屠殺所に
暗く音なく血が垂れる
真昼のやうな満月の下
風の音が高まれば
又思ひ出す
溝に棄てゝ来た短刀と髪毛
殺しても/\まだ飽き足らぬ
憎い彼女の
横頬のほくろ
日が照れば
子供等は歌を唄ひ出す
俺は腕を組んで
反逆を思ふ
わるいもの見たと思うて
立ち帰る 彼女の室の
むしられた蝶
わが心狂ひ得ぬこそ悲しけれ
狂へと責むる
鞭をながめて
------------------------------------------------------
『猟奇歌』は全て、このように、魔性とでも言うべき、心の闇を呟いたものばかりである。
興味ある人は青空文庫で読めるから見たらいい。
昼日中、加藤某なる青年が秋葉原の交差点へ、2トントラックで突っ込み、横断中の人々を無差別に殺傷した事件であった。
その事件の数日後、或る作家が或る詩人の詩を当地の新聞で紹介していた。その詩は、まるで此の事件を予告していた観のある詩であった。私は其の詩をみて、詩人の感性の生々しさに驚いたものだった。
***
紹介されていた其の詩は夢野久作の『猟奇歌』だと記憶していたつもりだったが、今回、この日記を書くに当たって、青空文庫で『猟奇歌』を調べてみた。しかし私が記憶しているような詩は見つからなかった。
たしか、トラックで人ごみに突っ込み、その現場が血潮に染まる・・・というような詩と記憶していたが、どうも私の勘違いらしい。
***
夢野久作の『猟奇歌』は特異な歌ばかりで、まさに猟奇だが、私は此の歌集は嫌いではない。人によっては眉をひそめるかも知れない。彼の歌の詩を二つ転記してみよう。
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殺すくらゐ 何でもない
と思ひつゝ人ごみの中を
濶歩して行く
ある名をば 叮嚀ていねいに書き
ていねいに 抹殺をして
焼きすてる心
ある女の写真の眼玉にペン先の
赤いインキを
注射して見る
この夫人をくびり殺して
捕はれてみたし
と思ふ応接間かな
わが胸に邪悪の森あり
時折りに
啄木鳥の来てたゝきやまずも
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何者か殺し度い気持ち
たゞひとり
アハ/\/\と高笑ひする
屠殺所に
暗く音なく血が垂れる
真昼のやうな満月の下
風の音が高まれば
又思ひ出す
溝に棄てゝ来た短刀と髪毛
殺しても/\まだ飽き足らぬ
憎い彼女の
横頬のほくろ
日が照れば
子供等は歌を唄ひ出す
俺は腕を組んで
反逆を思ふ
わるいもの見たと思うて
立ち帰る 彼女の室の
むしられた蝶
わが心狂ひ得ぬこそ悲しけれ
狂へと責むる
鞭をながめて
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『猟奇歌』は全て、このように、魔性とでも言うべき、心の闇を呟いたものばかりである。
興味ある人は青空文庫で読めるから見たらいい。
2015年6月1日月曜日
『墨東綺譚』 (永井荷風)
私は学生時代・・・今から半世紀程前だが・・・大学の生協で買った『墨東綺譚』(永井荷風)の文庫本を今でももっている。 私としては稀有なことだ。
私は永井荷風が特に好きなわけでもないのだが、今でも記憶していることがある。
私が高校生の時だったと思うが、私に文学好きな友人がいて、或る朝、彼に会ったとき 『おい、永井荷風が死んだぞ』 と知らされた。荷風の死にざまの故か、この友人の声が今でも私の耳の奥で聞こえるような気がする。
***
物持ちの悪い私が半世紀程も此の文庫本を、ともかくも持っているのは、『墨東綺譚』の最後の文章が好きだからだ。
引用しよう。
---------------------------------
花の散るが如く、葉の落るが如く、わたくしには親しかった彼の人々は一人一人相次いで逝ってしまった。わたくしも亦彼の人々と同じやうに、その後を追ふべき時の既に甚だしくおそくないことを知ってゐる。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃きに行かう。落葉はわたくしの庭と同じやうに、かの人々の墓をも埋め尽つくしてゐるであらう。
---------------------------------
思えば、私自身も今や『その後を追ふべき時の既に甚だしくおそくないことを知ってゐる。』歳になってしまった。
私は永井荷風が特に好きなわけでもないのだが、今でも記憶していることがある。
私が高校生の時だったと思うが、私に文学好きな友人がいて、或る朝、彼に会ったとき 『おい、永井荷風が死んだぞ』 と知らされた。荷風の死にざまの故か、この友人の声が今でも私の耳の奥で聞こえるような気がする。
***
物持ちの悪い私が半世紀程も此の文庫本を、ともかくも持っているのは、『墨東綺譚』の最後の文章が好きだからだ。
引用しよう。
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花の散るが如く、葉の落るが如く、わたくしには親しかった彼の人々は一人一人相次いで逝ってしまった。わたくしも亦彼の人々と同じやうに、その後を追ふべき時の既に甚だしくおそくないことを知ってゐる。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃きに行かう。落葉はわたくしの庭と同じやうに、かの人々の墓をも埋め尽つくしてゐるであらう。
---------------------------------
思えば、私自身も今や『その後を追ふべき時の既に甚だしくおそくないことを知ってゐる。』歳になってしまった。
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