2015年3月12日木曜日

『赤ひげ診療譚』(山本周五郎)

この小説は昭和34年に刊行された8篇の独立した短編から構成されている。
8篇中、最も印象に残る逸話は『むじな長屋』の後半に書かれている、「佐八」と「おなか」の哀話である。この小説は昭和40年に黒澤明によって映画化され、この「佐八」と「おなか」の逸話も映画化されていた。公開直後、私は此の映画を観た。「佐八」は山崎努、「おなか」は桑野みゆきが演じた。共に好演だった。
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大火事によって、「佐八」と「おなか」は別れ別れになってしまう。その二年後、「佐八」と「おなか」は、ほおずき市の日、浅草寺の境内で偶然再会する。
映画では此の一瞬、鉢に吊るした風鈴が一斉に激しく鳴り始める。これは、「佐八」と「おなか」の心理の動揺の見事なメタアァーであった。黒澤明は此の鈴の音色に随分拘(こだわ)ったらしいが、小説では風鈴の描写はない。
「佐八」と「おなか」の仲の運命的な出会いと切実な離別は、いかにも山本周五郎らしい逸話で切ないものであった。その出会いと離別は、臨終間際の「佐八」の告白として語られる。この告白は『人間というものの哀しさ』という意味での衝撃的なものであったのだが、小説でも映画でも此の逸話の描写は秀逸だった。
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先に書いたように、私は映画は昭和40年公開時に観ているが、小説は先日初めて読んだ。映画での此の逸話の各場面は今でも鮮明に記憶しているが、今回、小説をあらためて読んでみて此の逸話には更に感じ入るものがあった。
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私の家内の親戚の人が今でも浅草寺の「ほおずき市」での「ほうずき」を自宅に送ってくれることがある。その「ほうずき」を見ると、私は「佐八」と「おなか」の哀しい運命を常に思いだす。