2015年3月29日日曜日
『わたしの渡世日記』(高峰秀子著)
本書を読めば分かるが此の本のタイトルからして此の人らしい。なるほど、この人の人生は『渡世』と言う言葉がピッタリくる。
いかにも此の人らしいエピソードがWikiに書かれている。引用しよう。
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昭和40年、市川崑に撮影が依頼された映画『東京オリンピック』が、完成前の試写会で河野一郎(オリンピック担当国務大臣)が内容に疑問を投げるコメントを発したことをきっかけに大論争が巻き起こった際、高峰秀子は以下の擁護コメントを雑誌や新聞に寄せた。
『とってもキレイで楽しい映画だった。(文句をつけた河野は)頼んでおいてからひどい話じゃありませんか。市川作品はオリンピックの汚点だなとと乱暴なことばをはくなんて、少なくとも国務相と名の付く人物のすることではない』
高峰は直接河野に面会を求め、その席で高峰は市川と映画のすばらしさを訴えるとともに、河野が市川と面談するように依頼した。
河野は談笑を交えて、『実は映画のことは少しもわからんのだ』と高峰に答えた。その後河野は高峰のとりもちで市川と面談を重ねた結果、制作スタッフの努力を認め、最終的に『できあがりに百パーセント満足したわけではないが、自由にやらせてやれ』と映画のプロデューサーに電話して矛を収めた。海外版の編集権などは市川に戻った。
高峰は雑誌での河野との直接対談でも『永田雅一が友人だからあまり悪くは言えないが』と当時の映画の斜陽化と監督の力量を嘆く河野に対し『それは永田さん(経営者)の問題です。監督は所詮勤め人なんですから「これこれこういうものを作れ」と言われたらそういう物しか作れません』と直言するなど、河野に『高峰秀子と言う女は只者ではない。男に生まれていたら天下を取ったに違いない』と言われた。
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確かに此の本を読めば河野の、『高峰秀子と言う女は只者ではない。男に生まれていたら天下を取ったに違いない』という評価は正鵠を得ていた思わざるを得ない。
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この『只者ではない』ことの一つには此の本の歯切れの良い文章にもある。同じWikiを再び引用しよう。
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週刊朝日連載の『わたしの渡世日記』は「本当に本人が書いているのか」という問い合わせが殺到したが、当時の週刊朝日の編集部では、「ゴーストライターを使っているなら、あんな個性的な文章
にはなりません」と答えたといわれる。
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晩年に自身及び夫の骨壺を作ったという、この空前にして恐らく絶後の大女優・・・本人は女優という職業を大変嫌っていたのだが・・・俳優稼業の引退後は、同じWikiに依れば、
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瀟洒だが、大女優の邸宅としては質素な家に住んでいた。当初は、西洋の教会建築を模した建物であったようだが、老後に備えて、建物を小じんまりしたものに改装し、晩年は殆ど外部との接触を絶ち、早寝早起きの生活で余生を楽しんでいたと言われる。
最晩年には、自らの死期を悟ったのか、文藝春秋の編集者・ライター、斎藤明美を養女とし、自らの死後、夫・松山善三の世話を任せている。
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享年(満86歳、2010年12月28日) (合掌)
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以下、全く関係ない余談だが『只者ではない』で私は思い出すことがある。
私は私の半生において私の傍には、いつも猫がいた。どの猫も駄猫であったが、その中に一匹に実に頭の良い猫がいた。
なにしろドアのノックに跳びついてドアを開けるという芸当をするような猫であった。人の身振りを理解する『只者ではない』猫であった。もし人間に生まれていたら、それこそ天下をとったかも知れない。
出来うることなら、駄目人間の飼い主(即ち私)と代わってやりたかった。
2015年3月19日木曜日
『ノモンハンの夏』(半藤一利著、文言春秋社)
本書はノモンハン事件についての詳細なドキュメンタリーである。
私は昭和史についての知識は皆無だが、司馬遼太郎が以下のような趣旨のことを言っていたらしいので此の事件については、以前より興味だけはもっていた。
すなわち、『ノモンハン事件について書くことは司馬遼太郎にとって死ね、ということだ』と。要するに、司馬遼太郎にとって、この事件に登場する人物たちと当時の時代の(軍人を含め)指導者たちに全く魅力を見いだせず、書く気力を喪失させる、ということのようだった。
(この日記の最後に、NHKアーカイブスでの『司馬遼太郎とノモンハン事件』と題された半藤一利による証言をリンクしておくので参考されたし。)
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この本の著者:半藤一利は此の本で、当時の指導者(政治家、軍人)は無論のこと、報道関係者及び一般大衆をも手厳しく批判している。
本書は細かい活字で350頁もある詳細な記録であるので、私は読んでいて頭が痛くなるほどであり、また軍隊組織の知識も無い故もあって、正直なところノモンハ事件の軍事的な詳細は理解できたとは、とても言えない。
ただ、当時の軍人、特に陸軍の主要人物たちの『いいかげんさ』には全く驚いてしまった。本書でも、いたるところで、その点を痛烈に批判している。
本書の「あとがき」で著者は以下のように書いている。
『それにしても、日本陸軍の事件への対応は愚劣かつ無責任というほかない。手前本位で、いい調子になっている組織がいかに壊滅していくかという、よき教本がある。』
その具体例が、此の本で、綿密に一つ一つ詳細に検証されている。そして著者は辻正信という人物を「絶対悪の人間」だと断定もしている。
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先の戦争での日本帝国軍隊、特に陸軍の腐敗ぶりは、歴史音痴の私にも耳にしていたのであるが、まさか、それほどまで『いいかげん』だとは思っていなかった。
この本を読んでいて意外に思ったのは(私の歴史音痴によるものではあるのだが)、事件の要所、要所での昭和天皇の判断の適正さであった。
統帥権の独立といっても、このノモンハン事件当時においても、表向きは統帥権が守られていたようだが(即ち、軍隊での天皇の判断が最優先される)、現実には無視されていた。このことにも私は驚いた。
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なにかと批判される『統帥権』だが、もし天皇の判断が帝国陸軍に実質的に貫徹されていたならば、ノモンハン事件も、その後の太平洋戦争も、あるいは現実とは違っていた可能性が高いと思われる。たぶん、より良き方向に。
統帥権をも結果的に無視した帝国陸軍の「下剋上」に天皇は以下のように批判したという。
『畢竟、陸軍の教育があまりに主観にして、客観的に物を見ず、元来幼年学校の教育がすこぶる偏しある結果にして、これドイツ流の教育の結果にして、手段を選ばず独断専行をはき違えたる教育に結果にほかならず、・・・』
この批判を著者は正しいと書いている。現実は天皇の批判でさえも帝国陸軍は聞かなかった。時代の流れというものに流石の天皇も逆らえなかった。結局、結果として天皇は日本帝国陸海軍に都合よく利用された、ということだろうか。
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NHKアーカイブスで、『司馬遼太郎とノモンハン事件』と題された半藤一利の証言が放送された。参考になるだろう。
2015年3月12日木曜日
『赤ひげ診療譚』(山本周五郎)
この小説は昭和34年に刊行された8篇の独立した短編から構成されている。
8篇中、最も印象に残る逸話は『むじな長屋』の後半に書かれている、「佐八」と「おなか」の哀話である。この小説は昭和40年に黒澤明によって映画化され、この「佐八」と「おなか」の逸話も映画化されていた。公開直後、私は此の映画を観た。「佐八」は山崎努、「おなか」は桑野みゆきが演じた。共に好演だった。
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大火事によって、「佐八」と「おなか」は別れ別れになってしまう。その二年後、「佐八」と「おなか」は、ほおずき市の日、浅草寺の境内で偶然再会する。
映画では此の一瞬、鉢に吊るした風鈴が一斉に激しく鳴り始める。これは、「佐八」と「おなか」の心理の動揺の見事なメタアァーであった。黒澤明は此の鈴の音色に随分拘(こだわ)ったらしいが、小説では風鈴の描写はない。
「佐八」と「おなか」の仲の運命的な出会いと切実な離別は、いかにも山本周五郎らしい逸話で切ないものであった。その出会いと離別は、臨終間際の「佐八」の告白として語られる。この告白は『人間というものの哀しさ』という意味での衝撃的なものであったのだが、小説でも映画でも此の逸話の描写は秀逸だった。
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先に書いたように、私は映画は昭和40年公開時に観ているが、小説は先日初めて読んだ。映画での此の逸話の各場面は今でも鮮明に記憶しているが、今回、小説をあらためて読んでみて此の逸話には更に感じ入るものがあった。
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私の家内の親戚の人が今でも浅草寺の「ほおずき市」での「ほうずき」を自宅に送ってくれることがある。その「ほうずき」を見ると、私は「佐八」と「おなか」の哀しい運命を常に思いだす。
2015年3月8日日曜日
『日本のいちばん長い日<決定版>』(半藤一利著、文春文庫)
本書は昭和20年8月15日をめぐる24時間での、日本帝国の終焉の様子を其の時間経過で追ったドキュメンタリーである。
この一日での舞台役者は日本帝国の中枢部の人々であり、またポツダム宣言受諾を反古しようとしてクーデターを計画し敗残していく陸軍将校たちである。
この一日での舞台役者は日本帝国の中枢部の人々であり、またポツダム宣言受諾を反古しようとしてクーデターを計画し敗残していく陸軍将校たちである。
彼ら役者たちが何よりも重要視していたのが『天皇を主体とする国体保持』であった。
その重要視さ加減は、恐らく今日の人々にとっては呆(あき)れる程のものであり、理解不能な狂気にも見える。例えば、一部の陸軍将校たちの国体観は以下のようなものであったという。
『建国以来、日本は君臣の分の定まること天地のごとく自然に生まれてものであり、これを正しく守ることを忠といい、万物の所有はみな天皇に帰するがゆえに、国民はひとしく報恩恩赦の精神に生き、天皇を現人神(あらひとがみ)として一君万民の結合をとげるーーーこれが日本の国体の精華である。』
上記の文章を本気で信じている人が現在いるだろうか。
その証左に、或るサイトでのQ/Aがあるから無断で引用みよう。
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(質問)
『国体の護持』というのはそれほど大切なのですか? ご存知のように日本はポツダム宣言を「国体の護持」の一条件のみを付けて受諾しました。「全面的武装解除」や「責任者の処罰」は行わないなどという条件は付けませんでした。それはこれらの事柄よりも「国体の護持」の方が大事だったことを意味します。
また、連合国が国体の護持を明確に否定した場合はポツダム宣言受諾はありえなかった、即ち本土決戦になったと思われます。なぜに国体の護持がそこまで大切なのでしょうか。皆さんのご意見をお待ちしています。
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(回答)
相変わらず言葉の遊びが多いですね。言葉の定義の問題ではありません。「国体」とは大日本帝国のあり方、即ち明治に起こった新興宗教とも言うべき天皇教、国家神道に基づいて神である天皇が元首であり国の統治者である日本の形態です。
ポツダム宣言について日本は国体護持に関してぐずぐず言いましたが、アメリカは「天皇については日本国民の自由意志で決めればいい」と言いました。軍部と政府トップの一部は、それでは困る、と。つまりそれまでの様に神様である天皇を国の統治者とする国体にこだわったのです。その二週間で原爆を二発も落とされ、ソ連(ロシア)は中立条約を破って侵略してきた。
こうして、死ななくてもよかった日本人を更に数十万も殺して守ろうとした「国体」とは一体なんだったのでしょうか?そして国中が焼け野原になり、そろそろ餓死者も出始めていた日本です。一般国民が地獄の苦しみを味わっている事などは一切考慮になく、「国体の護持」が唯一、最大の降伏条件だった大日本帝国とはどんな国だったのでしょうね。
しかもたった6年の占領が終わって既に60年、国体の「こ」の字も出てきません。そしてその為に日本人が困っているという話も聞きません。いかに薄っぺらい観念だった証拠ではないでしょうか。
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昭和20年8月15日をめぐる24時間、及び、此の国の先の敗戦の戦争中には、このような『国体保持』の信者のみが正常者であった。
と、こんなふうに今私が断定できるのも、私が幸いにして其の時代に生まれてこなかったという単なる偶然によるものだろう。逆に此の掲題の本での登場者たちの壮絶な悲劇は、単に其の時代に生まれたということに過ぎない。
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戦争というものの、あらゆる悲劇・悲惨さの本質は、それが行われた時代、地域、民族とは無関係だと私は思っている。
その悲劇・悲惨さの本質は人類の脳の欠陥に依るものだと思っている。
その欠陥とは、この日記で何度でも書いてきたように、アーサー・ケストラーの『ホロン革命』で指摘している欠陥であって、具体的に言えば、人類という種のもつ『過剰な献身性』がそれだ。
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しかしながら、『天皇を主体とする国体保持』は、少なくとも今日において通用しないのは当然だとして、今日でも此の国で問題なのは『天皇なるもの』及び『天皇制』だろう。
少し熟慮しなければならないが、私における『天皇』とは、或る種の『大嘘』だと一応理解している。『大嘘』だが、私のセンチメンタリズムは以下の歌にも共鳴していることも告白しなければならない。
2015年3月3日火曜日
『あかね空』(山本一力著、文春文庫)
私は山本一力という人のトーク番組をラジオで聞いたことがある。その語り口は、まるで子供に噛んで含めるような朴訥さがあって、いかにも此の人の人柄を思わせる語り口であった。私は其の朴訥さに良い印象を受けたものだった。
そのトーク番組での話だったかどうか忘れたか、此の人は日常の用を足すとき自転車で行くそうであった。その自転車での用足しは、あるいは此の人の奥さんだったかも知れない。
その自転車での用足しの話は恐らく此の人が未だ『売れない』頃の貧乏時代のことであろう。都会に住んでいれば車よりも自転車のほうが便利ではあるが、しかし其の自転車での用足しの話は、いかにも此の人らしいと私は思ったものだ。
作家として立派に一人立ちした現在も、たぶん、此の人は自転車で用足しているのではないかと私は想像する。
***
『あかね』色は私の好きな色だ。柿の色も私の好みだ。
私の故郷は遠州の金谷(かなや)という田舎だが、近くに茶所で有名な牧の原が在る。私は故郷を離れて既に半世紀以上経つが、此の田舎町の『茶祭り』で唄われた唄の歌詞の一部を今でも懐かしく覚えている。その一部に以下の歌詞があった。
♪あかね襷(たすき)の、あかね襷の、茶もそろた・・・
***
私は『あかね空』という小説の存在は以前から知っていた。この小説の著者が山本一力だということも知っていた。先に書いたように『あかね』色の好きな私は故郷への郷愁を此の小説に重ねていた。前から読んでみようと思っていた。
ということで、最近、図書館から文春文庫のものを借りて読んだ。約400頁もある長編小説だが、元来、私は長編ものは苦手だったが、数日かかって完読した。私としては稀有なことだった。
***
予想していたことだが、この小説での登場人物たちは、山本周五郎の世界の人々に酷似していた。特に女性たちは『日本婦道記』での女性たちと少しも変わらない。
私は、これらの人々に逢いたくて此の『あかね空』を読んだと言っても過言ではない。
こう書くと『あかね空』の作者は不愉快に思うかも知れない。しかし其れは私の杞憂だろう。恐らく此の『あかね空』の作者は、あの孤高の作家・山本周五郎の世界を『あかね空』に見た私を喜んでくれると私は勝手に思っている。
***
ただ、やはり此の『あかね空』は、私の知っている限りにおいての山本周五郎の世界とは趣(おもむき)が異なる個所は当然ある。その最たる個所は此の小説の最後のほうの傳蔵が登場する場面だ。
この一連の場面は、まるで江戸歌舞伎の荒芸を見ている小気味良さがある。この一連の場面だけでも例えば成田屋の連中が歌舞伎化したならば、さぞ面白い舞台になるのではないだろうか。
そのトーク番組での話だったかどうか忘れたか、此の人は日常の用を足すとき自転車で行くそうであった。その自転車での用足しは、あるいは此の人の奥さんだったかも知れない。
その自転車での用足しの話は恐らく此の人が未だ『売れない』頃の貧乏時代のことであろう。都会に住んでいれば車よりも自転車のほうが便利ではあるが、しかし其の自転車での用足しの話は、いかにも此の人らしいと私は思ったものだ。
作家として立派に一人立ちした現在も、たぶん、此の人は自転車で用足しているのではないかと私は想像する。
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『あかね』色は私の好きな色だ。柿の色も私の好みだ。
私の故郷は遠州の金谷(かなや)という田舎だが、近くに茶所で有名な牧の原が在る。私は故郷を離れて既に半世紀以上経つが、此の田舎町の『茶祭り』で唄われた唄の歌詞の一部を今でも懐かしく覚えている。その一部に以下の歌詞があった。
♪あかね襷(たすき)の、あかね襷の、茶もそろた・・・
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私は『あかね空』という小説の存在は以前から知っていた。この小説の著者が山本一力だということも知っていた。先に書いたように『あかね』色の好きな私は故郷への郷愁を此の小説に重ねていた。前から読んでみようと思っていた。
ということで、最近、図書館から文春文庫のものを借りて読んだ。約400頁もある長編小説だが、元来、私は長編ものは苦手だったが、数日かかって完読した。私としては稀有なことだった。
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予想していたことだが、この小説での登場人物たちは、山本周五郎の世界の人々に酷似していた。特に女性たちは『日本婦道記』での女性たちと少しも変わらない。
私は、これらの人々に逢いたくて此の『あかね空』を読んだと言っても過言ではない。
こう書くと『あかね空』の作者は不愉快に思うかも知れない。しかし其れは私の杞憂だろう。恐らく此の『あかね空』の作者は、あの孤高の作家・山本周五郎の世界を『あかね空』に見た私を喜んでくれると私は勝手に思っている。
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ただ、やはり此の『あかね空』は、私の知っている限りにおいての山本周五郎の世界とは趣(おもむき)が異なる個所は当然ある。その最たる個所は此の小説の最後のほうの傳蔵が登場する場面だ。
この一連の場面は、まるで江戸歌舞伎の荒芸を見ている小気味良さがある。この一連の場面だけでも例えば成田屋の連中が歌舞伎化したならば、さぞ面白い舞台になるのではないだろうか。
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