2015年4月8日水曜日

『暮らしの哲学』(池田昌子著、毎日新聞社)

掲題の本の著者と同姓同名の女優さんがいるらしい。詩人:山本陽子もそうだった。掲題の本の著者は、ネットでしらべるとき、哲学と併記して検索すると出てくる。

大学では哲学科倫理学専攻したそうだ。生誕は1960年、死亡は2007年2月23日。肝臓癌だったそうだ。46歳の生涯だから、今日においては短命だったと言えるだろう。

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多くの文章を残しているが、此の人の文章の特徴は、掲題の本では以下のように紹介している。

『専門用語による「哲学」ではなく、考えるとはどういうことかを、日常の言葉で語る「哲学エッセー」を確立し・・・』。

ここでは「確立」と断定しているが、この本を読めば分かるが、此の人のライフワークは其の確立にあったようで、その道半(なか)ば逝った。無念だっただろう。

尤も、この人にとっては、我々の普通の人における死生観は通用しないから、無念もヘチマも無いに違いない。

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この本について、他の人は如何なる感想をもったかをネットで、ちょっと調べてみたら、こんな趣旨の感想を書いている人がいた。

『自分は哲学については、それなりの知識があるので、この本に書かれていることはアタリマエなことで退屈であった』と。

私は此の感想をみて苦笑した。必ず、こういう手合いはいるものだ。退屈なら読まなければよいことだし、要するに此の手合いは掲題の本の趣旨が分かっていないという恥さらしを表明しているに過ぎない。

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この本の始めのほうに数学の話が出てくる。無限と無に関しての話だ。

私が常々思ってることは、哲学者という人種はゲーデルの不完全定理を、どのように評価しているのだろうかということだ。

私自身は其の定理については全くの素人だが、その定理の意味していることは、それなりに分かっているつもりだ。

「考える」ということにおける此の定理の問題提起は、かなり深刻なはずだ。

日常言語で哲学を語る此の著者に訊いてみたい。

『貴女を此の定理を哲学では如何に問題視するのですか?』と。

私如き普通人にも納得できるように日常言語で答えてくれるだろうから。