掲題の本についての感想はネットで、いろいろと書かれているから先ずはソチラをご覧になれば、今更、この有名な本に私が蛇足を加える必要はない。
とは言うもののソレデ オシマイ とするのはナンだから、蛇足を以下に付け足しておく。
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ともかく『乾いた』文章が切れ目なく続き、又、其れが、ここまでやるかと思わせるほど『省略』されているから、そういう意味では此の本は決して読みやすい小説ではない。
事実、この小説に登場する人物は10名程度であるのだが、その人間関係を掴むには、私みたいに記億力の貧弱な人間には苦労する。
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人間という者は、何らかの『社会』の中で生きざるを得ない。
この本で印象的な文章がある。引用しよう。
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住むとか生きるとかいうきたなさをを伴った場所から出て、どこかよそのいい処、浄い処、極端に云えば台所と便所のない処へ行きたいのだが、そんな処は墓よりほかにあるだろうか。
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なるほど、今生の如何なる『社会』に居ようとも、其処には『台所と便所』が必ずあるものだ。
Aという『社会』からBという『社会』へ移ろうとも・・・即ち、『流れ』ようとも・・・其処には、食らうコトと排泄するコトが必ず付きまとうものだ。こればかりは生きているものの宿命である。
食らうコトと排泄するコトがきたないコトである・・・換言すれば其れが人間というものの業(ごう)であるならば、それから逃れるには死しかあるまいと筆者は云っているにように私には見える。
実は私も同意見である。
2015年4月20日月曜日
2015年4月8日水曜日
『暮らしの哲学』(池田昌子著、毎日新聞社)
掲題の本の著者と同姓同名の女優さんがいるらしい。詩人:山本陽子もそうだった。掲題の本の著者は、ネットでしらべるとき、哲学と併記して検索すると出てくる。
大学では哲学科倫理学専攻したそうだ。生誕は1960年、死亡は2007年2月23日。肝臓癌だったそうだ。46歳の生涯だから、今日においては短命だったと言えるだろう。
***
多くの文章を残しているが、此の人の文章の特徴は、掲題の本では以下のように紹介している。
『専門用語による「哲学」ではなく、考えるとはどういうことかを、日常の言葉で語る「哲学エッセー」を確立し・・・』。
ここでは「確立」と断定しているが、この本を読めば分かるが、此の人のライフワークは其の確立にあったようで、その道半(なか)ば逝った。無念だっただろう。
尤も、この人にとっては、我々の普通の人における死生観は通用しないから、無念もヘチマも無いに違いない。
***
この本について、他の人は如何なる感想をもったかをネットで、ちょっと調べてみたら、こんな趣旨の感想を書いている人がいた。
『自分は哲学については、それなりの知識があるので、この本に書かれていることはアタリマエなことで退屈であった』と。
私は此の感想をみて苦笑した。必ず、こういう手合いはいるものだ。退屈なら読まなければよいことだし、要するに此の手合いは掲題の本の趣旨が分かっていないという恥さらしを表明しているに過ぎない。
***
この本の始めのほうに数学の話が出てくる。無限と無に関しての話だ。
私が常々思ってることは、哲学者という人種はゲーデルの不完全定理を、どのように評価しているのだろうかということだ。
私自身は其の定理については全くの素人だが、その定理の意味していることは、それなりに分かっているつもりだ。
「考える」ということにおける此の定理の問題提起は、かなり深刻なはずだ。
日常言語で哲学を語る此の著者に訊いてみたい。
『貴女を此の定理を哲学では如何に問題視するのですか?』と。
私如き普通人にも納得できるように日常言語で答えてくれるだろうから。
大学では哲学科倫理学専攻したそうだ。生誕は1960年、死亡は2007年2月23日。肝臓癌だったそうだ。46歳の生涯だから、今日においては短命だったと言えるだろう。
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多くの文章を残しているが、此の人の文章の特徴は、掲題の本では以下のように紹介している。
『専門用語による「哲学」ではなく、考えるとはどういうことかを、日常の言葉で語る「哲学エッセー」を確立し・・・』。
ここでは「確立」と断定しているが、この本を読めば分かるが、此の人のライフワークは其の確立にあったようで、その道半(なか)ば逝った。無念だっただろう。
尤も、この人にとっては、我々の普通の人における死生観は通用しないから、無念もヘチマも無いに違いない。
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この本について、他の人は如何なる感想をもったかをネットで、ちょっと調べてみたら、こんな趣旨の感想を書いている人がいた。
『自分は哲学については、それなりの知識があるので、この本に書かれていることはアタリマエなことで退屈であった』と。
私は此の感想をみて苦笑した。必ず、こういう手合いはいるものだ。退屈なら読まなければよいことだし、要するに此の手合いは掲題の本の趣旨が分かっていないという恥さらしを表明しているに過ぎない。
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この本の始めのほうに数学の話が出てくる。無限と無に関しての話だ。
私が常々思ってることは、哲学者という人種はゲーデルの不完全定理を、どのように評価しているのだろうかということだ。
私自身は其の定理については全くの素人だが、その定理の意味していることは、それなりに分かっているつもりだ。
「考える」ということにおける此の定理の問題提起は、かなり深刻なはずだ。
日常言語で哲学を語る此の著者に訊いてみたい。
『貴女を此の定理を哲学では如何に問題視するのですか?』と。
私如き普通人にも納得できるように日常言語で答えてくれるだろうから。
2015年4月4日土曜日
『日本の名随筆 下町』(沢村貞子編)
沢村貞子に『わたしの下町』という著書があって、面白そうだから掲題の本を図書館から借りてみたら、それは沢村貞子が選んだ30名程の有名人の『下町』アンソロジーであった。
そのアンソロジーは全て東京の、いわゆる下町であって、その『思い出話』ばかりであった。『昔の下町はね・・・』と言った回顧趣味の話ばかりであった。
そもそも私は旧東海道・金谷(かなや)宿の産だから、縁(えん)も縁(ゆかり)もない東京の下町の回顧話など興味も関心もないものだから、この下町アンソロジーの一篇を除いて、全て斜め読みした。つまらないからである。
東京の下町の此のような回顧話には、その背後に或る種の臭みを私は感じた。いわゆる『江戸っ子振ることの臭み』である。
書いている当人には恐らく気づかないだろうが、東京・下町の此のような回顧趣味は、地方人・・・なんという時代遅れの語彙だろう・・・には、得てして或る嫌味と臭みを感じさせるものなのだ。だから、私は読んで面白くもないから斜め読み飛ばした。
ただ、このアンソロジーで1篇だけは例外的に面白かった。
それは永六輔の『肩身の狭い町』という随筆で、ここには単なる回顧趣味で終わっていない、現在の東京という『町』への鋭い批判・・・しかし決してシャチホコバラナイ・・・があった。この文章には野暮な甘ったれた回顧趣味は無かった。
2015年4月3日金曜日
『高峰秀子との仕事1』(斎藤明美著、新潮社)
実に面白かった。私としては珍しく一気に読んでしまった。
何が面白かったか? 其れは斎藤明美という人物から見た高峰秀子の『実像』が活写されているからだ。
斎藤明美は、高峰秀子夫妻の養女になった元記者(週刊文春)だが、其の記者という言わば写真機が高峰秀子という被写体を活写しているのだ。
その面白さの主体は高峰秀子というに稀有な人間自体にあるのは勿論だが、著者の闊達な文章にも依っている。
この本の中で紹介されている逸話での「傑作」は、『高峰秀子が乗り移る』と題された話で、高峰秀子という人間が如何に『変わった人』であったかが実に雄弁に読み手に伝わってくる。
『変わった人』とは? それを、もし、知りたいならば、是非一読を勧める(167頁)
何が面白かったか? 其れは斎藤明美という人物から見た高峰秀子の『実像』が活写されているからだ。
斎藤明美は、高峰秀子夫妻の養女になった元記者(週刊文春)だが、其の記者という言わば写真機が高峰秀子という被写体を活写しているのだ。
その面白さの主体は高峰秀子というに稀有な人間自体にあるのは勿論だが、著者の闊達な文章にも依っている。
この本の中で紹介されている逸話での「傑作」は、『高峰秀子が乗り移る』と題された話で、高峰秀子という人間が如何に『変わった人』であったかが実に雄弁に読み手に伝わってくる。
『変わった人』とは? それを、もし、知りたいならば、是非一読を勧める(167頁)
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