以下は、W.ランゲ=アイヒバウム著 島崎敏樹、高橋義夫、 訳『天才』みすず書房、2000、P130-133より抜粋である。(読み易くするために以下の文章に空欄行を入れている)
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人生では訓練と教養が不足したためにどんなに素質がゆがめられるものかということはだれでも知っているとおりであるが、精神病質的につよい感動性があると、そういう才能の素質を発展させ、拡大させ、深化させるバネとなることができる。
精神病質的な人はごくわずかな刺激にも反応して体験するので、彼の経験は拡大され、血の中のざわめき、不安、次々と変転する気分状態は多くの事物を体験させたり吟味させたりする。
こうして、回帰するもの、恒常的なもの、本質的なものに対する眼がとぎすまされる。
表象生活が大幅にゆれる性質、いつでも刺激に飢えている性質、あたらしいものに対する好奇心をもった精神病質者は、したがって数多くの領域の秘密をのぞきこむことができ、また一方これまでかくされていた自分の資質をさがしだせるのである。
こうしてはるかへだたったさまざまの領域が一つの心のなかで結合され、境界科学や境界芸術が進歩のための重要なみなもととして突然わきだしてくる。
この人たちにそなわった猪突的な感情生活、偉大な非合理性、自制の欠如、それからひきおこされるいろいろな結果がかさなって、ほかの人では到底のぞめないような経験ができあがるのである。
第二の助長――精神病質であることはなやむことであり、彼の自己自身が永遠につづく不快の源泉でもある。彼は自己の気分になやみ、自己の意志の不安定に苦しむ。
劣等感が他人の弱点に対する眼をするどくさせ、不満によって他人と自分とを比較する。
もともと比較は知能の本質的な機能であるが、たとえば身体の不具のためにひとからとがった批評をうけた場合を考えてみればわかることだが(リヒテンベルクの場合がそれ)、悲しい経験は悔みの念をよびさまし、悔みはよりふかくその体験に眼を向けさせて反省をうながす。
そうした暗い根本気分、物事を悲観的にとる受けとり方をとおして、はじめて多くの問題に真の厳粛さがあたえられ、存在の間隙と深淵に対して眼がひらく。
鷲のような眼をもつこの苦悩が認識のために価値をもち、作品に対する拍車としての価値をもつことはうたがう余地がない。
さらに第三の効用がある。精神病質者は夢想幻想への傾向をもち、彼の心はすぐ飛びまわりはじめ、地面をはなれることができるので、観念の流動性、あたらしい観念の連合に富んでいる。ただしそのためには、合理性――つまり理性と悟性の力が、幻想界への没入を制御できるだけ十分につよくなければならない。
ここでことわっておきたいが、私どもは「天才的」という形容詞を高度の創造的才能として今あつかっているのであって、社会学的な意味の天才とは別の角度からみているわけである。
そこでまず第一に狭義の「天才的」なものとして、物と物の関係を洞察する才能と発明的な思考力をあげることができよう。
ある人をほかの人よりも創造的にするものは、夢の層と合理の層を迅速に振動させて合奏させるという能力で、無形の混沌とした思考が、発生と同時に理性のふるいにかけられて形をえるのであるが、こうした思考様式が、完全な健康人の場合よりも資質にめぐまれた精神病質者の場合の方が多いのはうたがいえないことだし、このような思考様式が芸術的創作にとって有利なものだということも説明するまでもない。
それから天分にめぐまれた精神病質的な人は、環境の精神性、つまり時代精神というものをしらずしらずの間に容易に感受できるもので、いわば幾千のほそい水脈をとおして、時代の脈搏のざわめきをききとり、彼が抑制というものを知らぬ表現芸術家であるときには、その時代の歌をかるがると歌いあげることができよう。
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