2015年5月22日金曜日

『鬼の研究』(馬場あき子)

・特に能の般若の面について。

私は古文の知識が皆無といってよいから、馬場あき子の『鬼の研究』を理解できたとは、とても言えないが、ある程度は理解できた。先ず文章だが、読んでいて痛感するのは、その文章の陰翳の濃さだ。それは著者が歌人だからだろう。この本の最大の魅力は(僭越ながら)その文章そのものにある。勿論、本の内容は別格としてだが。
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それはともかくとして、あの般若の面は、どうして般若と呼ばれるのか、私は昔より分からなかった。

般若の面は、女性が人間であることを放棄した果ての、『業(ごう)のような愛の無残を知ったものの慟哭ゆえに裂けた口元を持った』と著書は書いている。
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更に著者は言う。『ところで<般若>とは<知恵>という意味である。「般若心経」はその<知恵>の究極として、「一切是空」の真理を説いたもので (中略) いっさいはすべて空なのであって、それを悟るときは、あらゆる魂の苦患(くげん)をまぬかれると教えるのである。』
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従って般若の面をつけるということは、人間であることを放棄し果てた女の、その最後の最後の破滅の瞬間の崖っ淵で、その女の魂は救われる、ということを意味する。 なんと深い意味があることか!! と私は思った。 般若の面をかぶる意味が私はよく理解てきた。
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著者は小面の面の<ほほえみ>についても含蓄ある解釈をしている。少し長いが引用しよう。

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『<かくすことはあらわすことである>とする日本的な美意識が衰えないかぎり、いやそれが薄れゆく時代であればなおさら、小面は美しい羞恥の心の存在を思いこさせるべく、新しい効果を生んでいるといえる。

小面のもつこのような怖ろしいまでの演技性、<ほほえむ>という演技性は、ことに女性の不幸な時代において多大に発揮された。 (中略) 

<般若>の面を云々するにあたって、なぜか<小面>から論じなければならない羽目にいたってしまうのは、(中略) きわめて演技的な小面の<ほほえみ>の内側には、時に般若が目覚めつつあるのではないかという舞台的幻想に取るつかれるからである。

つまり小面と般若によって表現される中世の魂はけっして別種のものとみることができないということだろうか。 (中略) すべての小面のかげにはひとつずつ般若が眠っている。般若と小面に宿るほのかな微笑のかげは、修羅を秘めた心の澄徹のゆえでなくてはならない。』
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小面と般若は決して別物ではないという著者の人間の心の洞察は説得力があり、これも私には『目からウロコ』であった。

ところで、小面が、ふと見せる妖しい微笑は、私はレオナルド・ダヴィンチの『モナリザ』の微笑を連想する。

美しいというより不気味な微笑だからだ。

やはり<妖しい>という表現だ妥当だろう。

もしかして『モナリザ』にも<般若>が奥に隠れているのかも知れない。
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追記:この本の五章に白練(しろねり)般若について書かれている。「白練」とは、成仏得脱する女人の浄衣にたとえられる扮装をいったものだそうだ。能『葵上』では、生霊:六条御息所が此の白練般若の面をかぶる。You Tube に能『葵上』がup-loadされていて、白練(しろねり)般若がどんな面なのかが分かる。このup-loadされた『葵上』(H13/5/20に宝生能楽堂で収録)には字幕がついており、分かりやすい。参考になるだろう。

2015年5月18日月曜日

『山の人生』 (柳田国男)


掲題の本の第一章に『山に埋もれたる人生のあること』と題された民俗学的記録がある。

その第一章に『山に埋もれたる人生のあること』と題された比較的短い文章がある。

以下のように書き始められている。

『今では記憶している者が、私のほかにはあるまい。三十年あまり前、世間がひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で斬り殺すことがあった。』

この後、私の本で一頁も満たない文章で終わっているから興味あるかたは読んでもらいたいが、私が此の話で常に不思議に思うことがある。

それは斬り殺される子供が自ら斬り殺されることを嘆願していることだ。

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その日、男(子供の親)が昼寝から覚めると・・・

『二人の子供が、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う斧(おの)を磨いでいた。阿爺(おとう)これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。』

そこで男は其の二人の首を打ち落としてしまった。

という話である。何故、この二人の子供が殺されることを嘆願したかの説明は一切ない。
それが私には不思議なのだ。

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『今では記憶している者が、私のほかにはあるまい。』と冒頭、柳田国男は書いているから、この記録は、あまり世間には知られていない事実ないし伝承らしい。

その気になれば、なんでも理由はつけられようが、当の柳田国男が其れについて何も語ろうとはしていない。

だから、余計、私には不思議に思えるし、また『山の人生』というものの真実が、私には見えてくるような気がする。

2015年5月4日月曜日

『季節のかたみ』 (幸田文)


最近、幸田文のエッセーを図書館から借りて読んでいる。掲題の本も其の一つ。

私は、いわゆる読書家ではないから、今まで読んできた文芸関連の本の著者の数は十を満たさない。従って以下に書くことは私の単なる主観に過ぎない。

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幸田文の文章を読んでいて私が感ずることは、昔、高校で習った初等解析幾何の定理の証明文を連想させる。勿論、其の文章は定理の証明そのものであるはずがなく、書かれている内容は、我々庶民の生活一般に関する事柄が全てだと言ってよい。

その生活一般に関する事柄の文章には、必要にして、かつ充分の語彙しか使用されておらず、冗長さや無駄が全くない。その点が、文章の構造として解説幾何学の証明文に酷似していると私は思う。

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また、初等解析幾何の定理の証明文には、文章としての虚飾は当然、無用というより排除されているが、その点も幸田文の文章にも似ている。

つまり幸田文という人の文章を、一言をもって言えば『乾いている』とも言える。

しかし、だからと言って、此の人の文章が無味乾燥というのではない。徒らに私情に走らない湿度の低さがあるのだ。

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此の人のエッセーの主題は、上にも書いたように『我々庶民の生活一般に関する事柄』だが、それを叙するとき、此の人は決して形而上の書き方はしない。

形而下というより、此の人の実体験・・・それは父:幸田露伴仕込みのものでもあるが・・・に裏打ちされた土台が必ずある。

であるから、書かれている人生の機微にも説得力がある。

そして其の機微に触れるのは、まるで洗い晒した木綿生地に触るように気持ちが良い。

其れが此の人の文章の魅力だ。