私は古文の知識が皆無といってよいから、馬場あき子の『鬼の研究』を理解できたとは、とても言えないが、ある程度は理解できた。先ず文章だが、読んでいて痛感するのは、その文章の陰翳の濃さだ。それは著者が歌人だからだろう。この本の最大の魅力は(僭越ながら)その文章そのものにある。勿論、本の内容は別格としてだが。
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それはともかくとして、あの般若の面は、どうして般若と呼ばれるのか、私は昔より分からなかった。
般若の面は、女性が人間であることを放棄した果ての、『業(ごう)のような愛の無残を知ったものの慟哭ゆえに裂けた口元を持った』と著書は書いている。
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更に著者は言う。『ところで<般若>とは<知恵>という意味である。「般若心経」はその<知恵>の究極として、「一切是空」の真理を説いたもので (中略) いっさいはすべて空なのであって、それを悟るときは、あらゆる魂の苦患(くげん)をまぬかれると教えるのである。』
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従って般若の面をつけるということは、人間であることを放棄し果てた女の、その最後の最後の破滅の瞬間の崖っ淵で、その女の魂は救われる、ということを意味する。 なんと深い意味があることか!! と私は思った。 般若の面をかぶる意味が私はよく理解てきた。
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著者は小面の面の<ほほえみ>についても含蓄ある解釈をしている。少し長いが引用しよう。
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『<かくすことはあらわすことである>とする日本的な美意識が衰えないかぎり、いやそれが薄れゆく時代であればなおさら、小面は美しい羞恥の心の存在を思いこさせるべく、新しい効果を生んでいるといえる。
小面のもつこのような怖ろしいまでの演技性、<ほほえむ>という演技性は、ことに女性の不幸な時代において多大に発揮された。 (中略)
<般若>の面を云々するにあたって、なぜか<小面>から論じなければならない羽目にいたってしまうのは、(中略) きわめて演技的な小面の<ほほえみ>の内側には、時に般若が目覚めつつあるのではないかという舞台的幻想に取るつかれるからである。
つまり小面と般若によって表現される中世の魂はけっして別種のものとみることができないということだろうか。 (中略) すべての小面のかげにはひとつずつ般若が眠っている。般若と小面に宿るほのかな微笑のかげは、修羅を秘めた心の澄徹のゆえでなくてはならない。』
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小面と般若は決して別物ではないという著者の人間の心の洞察は説得力があり、これも私には『目からウロコ』であった。
ところで、小面が、ふと見せる妖しい微笑は、私はレオナルド・ダヴィンチの『モナリザ』の微笑を連想する。
美しいというより不気味な微笑だからだ。
やはり<妖しい>という表現だ妥当だろう。
もしかして『モナリザ』にも<般若>が奥に隠れているのかも知れない。
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追記:この本の五章に白練(しろねり)般若について書かれている。「白練」とは、成仏得脱する女人の浄衣にたとえられる扮装をいったものだそうだ。能『葵上』では、生霊:六条御息所が此の白練般若の面をかぶる。You
Tube に能『葵上』がup-loadされていて、白練(しろねり)般若がどんな面なのかが分かる。このup-loadされた『葵上』(H13/5/20に宝生能楽堂で収録)には字幕がついており、分かりやすい。参考になるだろう。