或るサイトに『縄文ゼミ』というコミュニィティがあって、私は其の管理人さんに誘われて入会したのだが、それまで私は『縄文』という文字は知ってはいたが、如何なる意味においても其の内実は知らなかった。中学生の頃だろうか日本の歴史の授業で習った記憶があるが、その全ては完璧なまでに忘れてしまっていた。
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掲題の本は、そんな経緯で知った本であるが、著者が物理学専攻の人だったので興味を覚え図書館で借りて読んだ。と言っても此の本は400頁余もある本で、流し読みしただけだが・・・実は私は『縄文』の細かい専門的なコトには余り関心がもてなかったため、ざっと目を通しただけだが・・・最終章の『死と再生の時空---比喩の彼方に』は完読した。これは面白かった。
この本に眼を通しているとき、アーサー・ケストラーやライアル・ワトソンの著書が引用されていたので驚いたのだが、あらためて此の本の発行年を見たら1992年だった。
その頃と言えば、いわゆるニューサイエンスの流行が下火になった頃だが、下火と言えども此の本はニューサイエンスの文脈で書かれている印象を私はもち、その意味では懐かしくもあった。
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ただ、最終章で、『縄文』の霊魂を遺伝子に例えている点は、現在の私には新鮮であった。縄文人の思惟する霊魂の不滅は、現代流に例えれば、人間の遺伝子に相当するというのだ。個人としての人間そのものは死ぬわけだが、その遺伝子は子、孫へと基本的には永遠に受け継がれていく。確かに、そういう意味では『霊魂』は不滅と言えよう。
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霊魂と肉体についての話で思い出した小説がある。アントニオ・タブツキの『インド夜想曲』という面白いミステリー中篇が其れだが、そのなかで、或る会話が交わされる個所がある。詳しくは忘れたが以下のような趣旨の会話だったと記憶している。
Q: 魂における肉体は一体何でしょうね?
A:まぁ、鞄(かばん)みたいなものなんでしょうね。
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たしかに、この例えも一理あるような気がするが、縄文人は此の回答には恐らく納得しそうもない。何故なら・・・其の説明は面倒になるから知りたい方は本書を『流し読み』されたし。
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縄文人は光(or此の世)と闇(死orあの世)を循環する一繋がりの世界と捉えていたようだ。この本の著者は其れを『メビウスの帯』や『クラインの壺』に例えているのが面白かった。『メビウスの帯』や『クラインの壺』とは表裏の存在しない数学上の実体だが、いかにも此の著者らしい例えであった。
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本書は『縄文文化』について随分、丁寧に解説しているから、その方面に興味があるかたは、ちょっと覗いてみてもよいかも知れない。